学校法人中村学園

学園祖 中村ハル先生の想いと記録

中村ハル物語

第四部 教育の花開く

バザーを成功させたハル先生でしたが、お世話になった先代校長がすでに他界されていたこともあり、九州高女を退職されることになりました。

「昭和23年10月初旬退職願いを出して一時、養子久雄君が勤務している宮崎県の塚原(上推葉の下流。久雄君はそのころ日本発送電の水力発電所技師)に落ち着き、静養かたがた将来の方針を考えることにしました。」

ハル先生は宮崎県の山奥でゆっくり静養しながら、いろいろと将来の構想を練られました。このころは敗戦直後で食糧には最も不自由していた時代でした。

「この少ない食糧をうまく使いこなして、おいしく、しかも栄養のある料理を作り得る婦人は非常に少ない。私は幸い健康には恵まれている。自分が教育者として最後の働きを全うするには、横浜時代、神戸時代、九州高女時代を通じて30年間にわたる料理研究の成果を生かすべきである」と思い、ここでもう一度がんばってみようと宮崎を引き上げて福岡に帰って来られたのです。
ハル先生は校舎探しを始められ、様々な方々のご尽力により、唐人町公会堂を借用することが決まりました。昭和24年新春早々のことでした。ハル先生の、私学経営に乗り出した第一歩になったわけです。

「このときの陣容は、私が院長、事務会計には師範学校の後輩末松みさをさん(元中村学園女子高校校長末松先生のお母さん)、助手には九州高女時代の教え子の2人、というほそぼそとしたものでスタートしました。」

しかし、中村割烹女学院の看板をかけていよいよ生徒募集を始めると、入学者が何と450名も集まる大盛況でした。
「本格的な料理学校としては市内唯一といわれたかも知れませんが、現在のように至たれりつくせりとはいえません。しかし、実習の調理台だけは12台私の設計になるものを揃え、当時としてはまずまずの出発だったのです。とくに、物資の少ない昭和24年ごろでしたから。とにかくスタート早々450人もの入学者がありましたから私も意気盛んで、料理の指導にも熱が入るし、生徒さん(といっても上は50歳ぐらいから下は17、8歳まで)も熱心なものでした。」

この中村割烹女学院を創設するときには、ハル先生のお姉さんである保坂タミさんの陰ながらの応援がありました。中村割烹女学院を設立するに当たって、銀行に融資をお願いしたときに、どうしても担保が必要だったのです。

「もともと金とか財産に余り関心のない私には不動産などあるはずもありません。この担保のことを末松みさを先生に話したら、それは保坂の姉さんに頼まれたらどうでしょうとのこと。さっそく姉に相談したところ「まかせときなさい」と、こころよく引受けてくれました。間もなく、銀行から融資される事になりました。」

実はこのとき姉の保坂タミさんは家人に内緒で家屋敷の権利書と実印を持ち出して担保にしたという裏話があったのです。

後日タミさんは「あたきはこの料理学校はあたると思うとった。日本人がみんなひもじい思いをしとる時じゃけん、食べ物の仕事はこれはよい思い付きばい。それにハルしゃんのことじゃけん、必ず成功すると信じとった。ひょっとうまくいかんときは死んで、主人や家の者にはお詫びするつもりじゃった」と、カラカラと笑いとばしてしまったそうです。

お姉さんや様々な方々のご尽力によって設立された中村割烹女学院から、中村ハル先生の新しい時代が始まったのです。

INDEX
 
第一部
教育者の道をたどって
 
第二部
料理研究に燃やす執念
 
第三部
努力は涙とともに
 
第四部
教育の花開く
 
第五部
学校法人中村学園設立
 
第六部
努力の上に花が咲く