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中村学園資料室

学園祖 中村ハル自伝 努力の上に花が咲く

第3部 努力は涙とともに(その1)

新しい世界を神戸に求めて

震災後一応横浜に帰り、以前と同じく岡野尋常高等小学校の教員として勤務しました。しかし、校舎はいつ建つか見通しがっかず、樹の下を借りたりしての勉強。先生方のなかには亡くなられた方も多く、とにかく授業も思うように手につきません。それでも、私が横浜市民なればどうでもこうでも学校が復興するまでがんばらねばならないところですが、もともと私が横浜に赴任して来た大きな目的の一つは、中央に出て料理と家事科の勉強を進めたいことにありましたから、この関東大震災は私の修業計画を大きく狂わせてしまいました。
といって、みすみす福岡に帰る気にもなれず困っていたときに、また新しい道が拓けて来たのです。

横浜市体育課に勤務されていた今井学治先生が、震災後、神戸市兵庫尋常高等小学校に校長として転任されました。今井先生は以前福岡県男子師範学校の体操の教諭をしていられた関係で、私ともじっ懇の間柄でした。この今井先生が神戸に着任されて、ときの神戸市教育課長横尾繁六先生に私のことを詳しく話されたとみえて、神戸市から赴任方の打診がありました。私自身としましても、すでに横浜在職三年以上にもなり、東京方面の名流料理だけはだいたい学んだことだし、今度は京都、大阪、神戸方面でさらに料理の勉強をしたいと念願していましたので、校長の久芳先生に事の次第を話し相談しました。久芳先生もこれを諒とされ、特別の計らいで、神戸市に赴任することが決定したのです。

このとき、横浜市教育課では震災後の困難な時期にも拘わらず、特別の扱いで月俸を百円に増俸してくれましたので、神戸市の方ではさらに一級増俸して月俸百十円で迎えてくださいました。
そのころ、小学校の女教員で月給百十円というのは東京にもなく、私は全国一の高給取りになったわけです。一般に、神戸市は外国貿易港で財政も豊かだったのでしょう、教師の待遇はよかったのです。それにしても、よほど今井学治先生の説明がよかったのではないかと想像されますし、また教育課長横尾先生の英断には感謝のほかありません。

こうして大正十四年四月一日、神戸市兵庫尋常高等小学校訓導として神戸に赴任、家庭科担任の教員として新しい活動に入りました。
この学校にちょうど一年間勤務しているうちに、教育課長横尾先生の新しい構想に基づき、神戸市に全国初めて男子高等小学校、女子高等小学校を尋常小学校と分離して設置することになり、男子の方は兵庫男子高等小学校、女子の方は明親女子高等小学校となり、私は明親女子高等小学校の方に配属されました。

独自の家事参考書を出版

明親女子高等小学校の初代校長は藤本先生といわれる方で、姫路師範学校の卒業です。女子の先生方は、家庭科裁縫に東京の渡辺裁縫学校や共立専門学校の卒業生の方がいましたが、あとでは皆共立専門学校卒業生だけになりました。食物の方は私がひとりで担当しました。私はそのほか、看護法、衛生、一般家事などをいま一人若い女の先生を助手につけて受け持ちました。

この神戸時代が、四十歳を少し越したくらいで一番よい年ごろだし、実際私の一生のうち教員としては最も充実感を味わった「花の季節」だったと思います。それらの思い出を記録に残しておきましょう。
この神戸時代も横浜のときと同様、夜や日曜日、長期休暇を利用して料理研究を続けました。
そのころ勉強の場所として指導していただいた個所は、洋食の部門では(1)神戸のオリエンタルホテル(2)京都ホテル(3)みやこホテルなどであります。

日本料理では(1)大阪の鶴屋、(2)京都松原の精進料理、(3)特殊の料理では祇園の芋棒等々でありますが、なかでも大阪の鶴屋には一番熱心に通ったものです。

中華料理は(1)神戸市南京町にあった有名中華料理店、(2)京都の広東料理店や中華鍋料理店等等で、横浜とはまた変わった趣向の料理研究ができました。

次に、私が教員としていささか誇り得る業績は、独自の家事科の教師用参考書を編さんし、刊行したことであります。 私の主義とする家事科の指導のあり方は、文部省編さんの教師用指導書を使っていてはうまくいきません。そこで独自の教師用参考書と生徒の学習帳を出版したのです。

教師用の参考書は「学校を生活の場所としたる家事教育」と題したB5版三一九頁のものでした。
そのころ高等小学校の家事科の指導は理論はよく組み込まれていましたが、家庭で実際に行なうことと、ピッタリ合ってないことが多いようでした。これでは何のための家事科かということになります。そこで、私としては学校における家事科での指導と、家庭における実際とがピッタリ合うように学校を一つの大きな家庭と見立て、家庭で実際やるように学校において掃除にしろ、整頓にしろ、看護法にしろ、家庭と思って常々作業をさせる方針をとりました。
これが家事科指導における私の主義主張であります。

従って、例えば授業で清潔整頓を教わったら、校舎内外の掃除も自分の家をきれいにするのと同じ気持ちで隅から隅まできれいに掃除をする。便所でも、教室でも、廊下でも、壁でも傷めないように丁寧に、しかもきれいにする。また洗濯法を教わったら、学校のカーテンでも宿直室のシーツでも、テーブルクロスでも何でも、汚れているものは自分の家庭のものと考えてきれいに洗濯しアイロンをかけるのです。

野菜も自給自足

食物の調理についても、自分の家庭でやっている考えで実習させる。野菜でも一から十まで店先の野菜を買わないですむ工夫をして、空地があったら耕して種子を蒔き、朝の味噌汁の具になるくらいの野菜は自分で栽培する習慣をつける必要があります。
この野菜栽培の知識は家事科教育の一環でもありますが、また女性として植物や野菜の栽培は趣味としても味のあるものだし、第一自分で野菜を作ってみると農家の苦労もわかってきて、野菜を粗末にしないようになり、家庭経済上非常に益することにもなるのです。

明親女子高等小学校における野菜栽培のことについては、ほほえましい思い出がありますので、もう少し書き綴りましょう。
私の家事科指導の趣旨から野菜栽培を是非実行しなければと思いたち、さっそく校長先生にお願いして運動場の片隅を拝借、つるはし、唐鍬を揃えてりっぱな畑に耕しました。最初は夏野菜から始めました。キュウリ・カボチャ・ナス・トマト・青菜などです。

肥料は今日のように化学肥料はあまりありませんので、もっぱら下肥を使うことにし、肥柄杓や肥桶の用意をしました。しかし、皆都会の生徒ばかりですから下肥など扱った者は一人もいません。教師たる私が率先垂範で下肥を汲み出し、野菜にかけて見せます。すると数人の生徒は、鼻をつまんで逃げ出してしまいました。私がわざといやな顔もしないで、どんどんかけて行きますとまた数人逃げ出すといったぐあいでした。

次の割烹の時間のまず最初に「先生が下肥をかけるのを見て、鼻をつまんで逃げ出した人には栽培した野菜は使わせませんよ。その代わりに店先にさらしてあるしなびた古い野菜を使ってもらう。先生と協力して野菜作りに精出した人には畑にできた新鮮なつやつやした野菜で実習してもらうことにするから、そのときになって不平を言っても知りませんよ」と約束しました。逃げ出した生徒も、これでいくらかこたえたらしい。だんだん日がたって、ナスに美しい実が下がり、トマトが可愛い実をつけ初めると、生徒は「まあかわいい」とか「美しい」とか喜びの声をあげて、畑に入ってきては、草をとったり、ついには野菜の手入れなどを手伝い始めました。

さて、いよいよ夏野菜を使う料理の時間が参りました。私は畑でとれたつやつやしたナスと、店から買って来たしなびたナスを並べて「野菜作りから逃げた人は、このしなびたナスを使いなさい。野菜作りを手伝った人は自分たちで作ったものを使ってよろしい」と材料を渡したものですから、野菜作りにそっぽを向いていた生徒もついに詫びを入れ、それからというものはわれもわれもと野菜作りに精を出し、下肥えも厭がらずかけるし、除草や耕し作業も進んでやるようになりました。これらの作業は放課後課外活動として私の指導の下にやるのです。
高等小学校の生徒はかわいいもので、教師の指導一つで良い方に向うものです。

校長の藤本先生も、畑を御覧になってびっくりなさいました。運動場の片隅のやせ地に、専門の農家でさえ顔負けするような野菜がりっぱに育っているのですから・・・・・・。熱意ひとつで、こんなにもできるものかと感心しておられました。 このころは全国各地から明親女子高等小学校における家事教育の実状を参観に来られる方々が多かったのですが、その方々にこの野菜栽培の模様をお目にかけると、その出来栄えに皆感嘆されるのでした。

このことが県の学務課の方々の耳に入り、部長や課長がわざわざ見学に来られたことがあります。そして申されるに「県立の農学校は専門でありながら、野菜栽培というとすぐ温室、温室といってろくなものは作りきらん。明親女子高等小学校では素人の女生徒の手で運動場の片隅を耕している。みんなの熱意ひとつで、太陽の熱はこんなに見事な野菜を与えてくれる。

「農学校は、まるでなつとらん」といわれて帰られました。おかげで、私も鼻を高くしたものです。 このような実績がだんだん評判になり、確かに神戸市における家事教育は実生活に即したやり方であるとのことで参観者は引きもきらず、私も神戸市の教育のため面目を施したつもりでおりました。

次に私がいろいろと考えたのは、家事科の教具のことであります。教具を整備するには、次の二通りの手段によるべきであると考えました。

①公費で揃えてもらうもの
②教師や先徒の創意と努力によって自主的に自分たちで揃えるもの

家事科のなかの衣・食・住・看護・衛生・育児・家庭経済の各部門のうち①の公費によるものは何か②の教師生徒が自分たちで揃えるのは何々がよいか、徹底的に研究分類して、たとえば教師や生徒の手に負えないミシン・アイロン・鍋・釜・コンロ・庖丁などは学校で揃えてもらう。しかし、その他の教師生徒の創意、工夫、収集努力によった方が第一勉強にもなるような標本や簡単な模型、資料等は自分たちで揃えることにしました。私は収集するのに特別強い趣味を持っていたものですから、教室いっぱいこれらの標本や模型を集めたものです。

神戸の鐘紡工場には綿糸、綿布の製作工程模型を作ってもらい、京都の西陣織工場を訪ねては実物標本を分けてもらい、大阪の淀川地区の各種工場を訪ねては家事に関する種々の標本を寄贈していただきました。淀川地区は随分広い地域に工場があちこちとありましたが、煙突目あてに足の悪い私が標本の集まるのを唯一の楽しみにして一日中よく歩いたものです。

地方で初めての全国女教員大会

小学校女教員会全国大会を神戸市で引受け、私はその運営責任者として大いに活躍しましたが、これも大きな思い出になっています。神戸市の小学校女教員は二〇〇人ほどおられたかと思いますが、立派でそうそうたる先生が揃っていられました。そのなかで、私は最高の待遇を受け、赴任後一年半にして月俸二一〇円になりました。これは教頭に匹敵する待遇で、市教育課長横尾先生も大いに目をかけてくださったからでありましょう。そのようなことで、いつの間にか女教員の指導的立場に立たされ、ついに兵庫県女教員会会長に祭り上げられました。県女教員会議があるときはいつも議長をつとめねばなりませんが、割合いうまくやっていたとみえて、この会議の主宰振りを傍聴された市の課長さんから「中村先生の議長振りは県会の議長よりましだ」と冷やかされたことを覚えています。

このころ、教育界の組織されたものとして帝国教育会というのがありました。本部は東京です。小学校の男女教員はこの帝国教育会の研究発表会に全国から集まり、そこで研究の発表討論を行なうわけです。小学校女教員会はいつも東京で、しかも夏休みを利用して開催されていました。私が神戸に赴任してからは、兵庫県下の若いそうそうたる女子教員に研究課題を出し、神戸市でその発表会を持ち、なかで最も優秀と認められた先生二十人ばかりを選んで私が引率、中央の全国女教員会に出席するのです。研究発表では、東京対裡尺横浜対神一尺大阪対神戸といったような組み合わせで研究討論を重ねました。神戸はなかなか重きをなしていたのであります。

昭和三年の小学校全国女教員会のときだったと思います。それまでこの大会は東京開催が慣例になっていましたが、地方開催もときには変化があってよくはないかとの意見が出され、大阪はどうだろうとの提案がなされました。ところが大阪の代表の方から、来年の大会は請け合いかねますと断わられましたので、私は決断してそれでは神戸が引き受けましょうと約束しました。

全国大会を地方で開催することは大変なことです。神戸市の面子もあることですので、つまらぬ大会にしてはなりません。さっそく市女教員の幹部七、八人を選んで、幾回となく会合を重ね、どのように準備を進めたらよいかを研究しました。
まず第一番に資金を用意しなければと、東京、大阪方面の資産家、実業家の別荘地須磨、明石、舞子の浜に手分けしておもむき、寄付金を集めてまわりました。 教育課長の横尾先生も、地方で開催される第一回目の大会が神戸市で行なわれるということで「これはぐずぐずしてはおれない。東京や大阪をアッといわせるくらいにやろうではないか」と大張り切りで、私たちもおかげで活気づきました。

大会では、帝国教育会から理事の野口先生が出席され、帝国教育会からの出題、各県からの協議題について活発な討論、討議が行なわれました。
また現場の研究授業も見てもらおうと、神戸市内の三、四校を指定、そうそうたる女の先生の実地授業を行ない、それの批評会も持ちました。

大会後の懇親会もなかなか豪華なものでした。第一に神戸市長から宝来丸という船を出してもらって大阪湾を遊覧、船上で市長招待のお茶の会を催す趣向です。二番目は私どもが集めた寄付金で全員を宝塚の歌劇に招待しました。そのほか、神戸港、造船所の見学、宿舎の手配など至れり尽くせりのもてなしをしましたので、全国の小学校の幹部の女教員の方々も大いに満足されるし、同時に兵庫県女教員会、神戸市女教員会の名声も大いに上がったのであります。

それとともに、今度は神戸市家庭科研究部編集の「学校を生活の場所としたる家事教育」はとたんに教育界の脚光を浴び、中央の帝国教育会の方で出版の世話まで引き受けようということになりました。
この参考書の編集は神戸市家庭科研究部となっていますが、もともとは明親女子高等小学校における私の家事教育の実情を著書にしたものです。これと生徒が用いる学習帳は各地から注文が殺到するようになりました。その範囲も関西を中心にして、東は名古屋方面から、西は広島、岡山方面にまで及びました。

文部省の指導書があるのに、これだけの広範囲にわたり私が責任を持って出版した教師用参考書、生徒用学習帳が採用されたことはまことにうれしい限りでした。このため私は関西一円、四国、中国と家庭科講師として随分招かれたりしました。

すっかり上がったホテルの食事

神戸時代、私が女性なるがゆえに笑うに笑えない、自分で苦笑するような思い出があります。昭和四年十月一日付けで、私は兵庫県視学委員を拝命したのです。視学委員になって初めて私は県の学務部長や課長さん、それに姫路師範や御影師範学校長さんらといっしょに県下家庭科の指導視察に回りました。女性は私のほかにもう一人だけです。

さて、視察がひと通り済んで、神戸市のオリエンタルホテルで慰労会が持たれました。そのとき私は四十五歳でしたが、世間なれしないうぶなところもあったのです。宴会が始まり、オードヴル、スープと順序に従って料理が出ましたが、男性の偉い方々がずらりと並んでおられるなかに、女性はたった二人。恥ずかしくて恥ずかしくて食べる気持になれず、もじもじしているうち、料理はかってに出されてはさっさと引かれて行きます。オードヴルが引かれる。スープも口をつけないうちに引かれる。魚・肉皿もナイフ、フォークをちょっとつけただけで下げられる。この間、男性の方々はおいしそうにパクパク食べておられるのがうらやましくてしょうがない。とうとう最後のデザート、コーヒーになってしまいました。

これで宴会はすんで解散。男性の方々は、さも満ち足りたように陽気に帰られる、ホテルから出て二人になってからの話がおもしろい。

「あなたひもじくないですか」
「ええ、おなかがすいてたまらない。このままではとても、今晩眠れそうにない」
「では、近くのうどん屋にでも寄って食べて帰りましょうか」

かくて話は決まり、うどん屋で素うどん一杯食べて、おなかをふとめて帰ったことがあります。
兵庫県の視学委員・家庭科の指導員ともあろう者が、洋式宴会の席上で料理によく手をつけきらないで、もじもじして上品ぶっていたそのころの私の心根がかわいくもあるし、やぼったくもあるし、おかしく思われてしょうがありません。
今から考えると、そのころの女性は、男性の前では一厘の値うちもないくらい弱い存在だったのでしょう。いま時の若い女性は男性の前でも堂々と振舞えるのでしょうが、昔の女性はだいたいこんなところだったかも知れません。
神戸における活躍振りが教育界で高く評価されたらしく、一時私を小学校長にしたらという話が視学さん方のなかで出たそうです。教育課長の横尾先生からも、あるときその話が出ました。

「もしそうなったら教員組織が大切だから、どんな教員を揃えたらよいかそろそろ心組みをしておくように、また校長となる場合の教育方針等考えて心構えを作っておくように」ということでした。ところがそのころ兵庫県では姫路師範の卒業生でいて教頭止まりでなかなか校長に昇進出来ない先生方が多く、この方面から女の校長に反対する声が上がって、このことは実現しないまま、やむを得ない事情のため郷里福岡にどうしても帰らなければならないことになりました。

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