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中村学園資料室

学園回想記 中村久雄

2.中村栄養短期大学の設立

昭和二十九年四月、福岡高等栄養学校が開校したことは既に前号で紹介した。創立者中村ハルは「頭より、何より人物をつくることが教育の基本である」との信念にたっていたのだが、福岡高等栄養学校という栄養士養成を専門とする学校--所謂職業教育を主体とする各種学校--では教養、品性の涵養において充分でないことを痛感するようになった。そして同じ二年間の教育であれば、一般教育を履修する短大の方が優れていると考えるようになった。
昭和三十一年六月頃、中村ハルは文部省に出向き、既にある福岡高等栄養学校の校地、校舎、設備を母体として栄養短期大学設置の可否について相談した。当時九州地区には短期大学はせいぜい六、七校しかなく、文部省の担当官も軽い気持ちで「頑張ってやんなさい」とむしろ激励される態度であった。

私はその頃九州電力kk大分支店発電係長で単身赴任中であった。部下が十人位いて、技術屋としては割合張り合いのある仕事をしていた。時たま福岡に帰って来て、中村ハルが何か新しい学校づくりに取り組んでいること位は聞いていたが、さして気にも止めず他人事位に考えていた。

ところがである。その年十月初旬頃、自宅から電話がかかって来て至急福岡に帰ってくるようにとのこと。帰って来てみて驚いた。短期大学新設の認可申請書を九月末文部省に提出したが、内容が全くなっていない。至急やり直すようにとのこと。ー力月間、即ち十月末日まで書類の差し替えを許すとのことで、まさに後がないとはこのような状況をいうのであろう。

少し専門的なことになるが、短期大学の新設認可は文部大臣の所管で二通りの申請書を提出するようになっている。一つはその学校の教育、研究の内容を明確にしたもので設置認可申請書と呼んでいる。具体的にどのような教授や助教授が揃われるか、カリキュラムはどのように編成されているかを主体とする。もう一つの申請書はその新設校の経営が健全に維持されるか、財産の状態、校地、校舎は整備されているかを内容とするいわゆる寄附行為変更認可申請書と呼んでいるものである。前者の申請については文部省からの厳しい指摘を受けて、直ちに櫻井 匡先生(後の短大教授・学園理事)や福大教授河原由郎先生(後の福大学長)等のご協力を得て何とか見通しがついたようであるが、後者の学校法人の経営や財産のことになると外部の人には全く判らないし、第一、創立者である中村ハル自身、優れた教育者ではあっても経営のことは全く判らない始末である。そこでこの方は専ら「中村久雄君(当時九電の了解を得て中村学園の学外理事に就任していた)の担当で進めてくれ」とのことである。

隣りの騒ぎを高見の見物とシャレ込んでいたのがいつの間にか渦中に巻き込まれたようなものである。九電大分支店の方でも技術的に非常に難しい仕事を手掛けていたので、その方も放っておく訳には行かず、会社の仕事が済み夕方六時、日豊線大分駅発の列車に飛び乗り、博多駅着十一時、自宅着十二時、徹夜で申請書作りをし、トンボ返りで大分に帰るという過密スケジュールも二回程あった。会社には内緒で「中村栄養短期大学設立準備室長」と名乗り文部省にも足繁く通い、何とかその年の十二月頃には認可についての明るい希望が持てるようになった。

無我夢中の域を脱し気持ちにゆとりができたところで反省してみると、この三ヶ月間、九電社員として全く責を果さなかったばかりか、勝手な振舞いをしたことへの自責の念がつのるばかりである。

一方この学校は銀行からの借入金をかなり抱えているが、これには全て中村久雄の個人保証がついている。万一経営がうまくいかない場合の自分の立場等あれこれ考え、この際会社をやめ、中村学園の経営に本腰を入れて取り組むべきであるとの結論に達したので、同年十二月遂に九州電力KKを退社した。
翌、昭和三十二年一月末、文部省の実地審査も無事済み、同年三月十五日付で認可書を頂き、四月から目出度く開学することができたのである。

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