図書館

中村学園資料室

学園回想記 中村久雄

4.中村学園女子高等学校の誕生

昭和三十二年四月、中村栄養短期大学開学と同時に、創立者中村ハルは自ら学長に就任し教育、研究の充実向上に情熱的に取り組んでいた。ところが一、二年たつうちにおかしなことに気付いた。短大に入学してきた女子学生の態度が全くなっていないのである。永年女子教育に携わってきた中村ハルの頭の中には、女子学生の生活態度はかくあるべきというひとつの規範があるが、それに合っていないのである。掃除のし振りを見ても、雑巾を足の先につっかけて使ってみたり、雑巾の絞り方ひとつ知らない。(当時はまだ電気掃除機やモップは無かった)先生に対する会釈のし方も知らない。マナーが全くできていないのである。

そこでよくよく調べてみると、男女共学の公立高校出身者にそのような者が多いことが判った。公立高校の実態を更に詳しく調べてみると、知育偏重で進学には力をいれているが徳育、特に最も大切な人間教育がなおざりにされていることに気付いた。大きな衝撃であった。教育者である中村ハルは、そこで一大決心をした。よし、それならば自分で高等学校を創り、そこで理想的な女子教育を実践してみよう、ということである。昭和三十三、四年頃のことである。このような動機のもとに創立される学校であるので、当然のことながら中村ハルは、女子のみを収容する女子高校設置の構想を練り始めた。しかし、理想の高校を創る以上は、自分の体験のみに基づく教育理念だげでは不充分である。体系づけられた教育学の理論からの見解をも求めようということになり、九州大学教育学部平塚益徳教授(後、国立教育研究所長・故人)、原 俊之教授(後、中村学園大学長)に男女共学、別学の是非功罪について指導を仰ぐことにした。

その結論を要約すると、「人間十二、三歳位から十五、六歳位が肉体的にも精神的にも性別の発達が最も著しい年代で、中村先生が志向されるような人間の本質に基づく躾や教育を徹底させるには、男女別学の方が効果が大きい」ということであった。
中村ハルは、更に人間教育の根幹をなす校訓として、「清節、感恩、労作」を掲げることにした。この三つの徳目は本大学、短大の建学の精神の中にもとり入れられている。校地の取得、校舎の建築、建設資金の手当て、教員陣容の確立等々困難の連続であったが、それらを何とか乗り切り、県知事の認可を得て開校したのが昭和三十五年四月であった。

ここで、私にとっては一生忘れることのできないエピソードを紹介しておこう。昭和三十六年のことである。開校後やり繰りしながら校舎建築を進め、第三期工事(講堂建築)までは順調だったが、第四期工事(普通教室十六教室増築)に当たってにっちもさっちもいかぬようになった。建築資金調達のめどがつかないのである。校舎建築とか資金確保は私の責任になっていた。当時の日本は、敗戦後の復興から急速な経済の成長期に入っていた。銀行の融資にも順位がつけられ、鉄鋼、機械等基幹産業優先で教育事業は最下位である。明春四月入学してくる生徒を入れる教室の建築資金だからと平身低頭して頼んでも、学校に貸す金はありません、と銀行の冷たい返事が返ってくるだけである。その頃、私は東京に出張する機会が多かった。頭の中は建築のことで一杯であったが、福岡を離れた時ぐらいは気をまぎらわす酒でも飲もうと、大学時代の友人金井君を小料理屋に呼び出した。同君は伊藤忠商事東京本社の部長をしていた。杯を交わすうちに、金井君の方から「中村、君はこの頃私立学校の経営者に変身しているそうだが、学校の方はうまくいっているのか」と問いかけてきた。私は率直に困っている実状を打ち明け「そういうことで、今日はヤケ酒の相手に君を呼んだような訳だ」と謝った。金井君、暫く考えていたが「それならいい方法がある。伊藤忠商事の方で校舎を建ててやろう。支払いは、校舎完成後年賦か何か可能な方法でよい。今度福岡の方に支店が開設されるから、支店長によく話をつけておく」とのことである。地獄で仏とはこのことであろう。福岡に帰って来て早速、伊藤忠商事の支店長に会い、契約を済ませ、校舎の増築工事に着手することができた。中村ハルもこの時ばかりは余程嬉しかったとみえて、「久雄君はよく友達と酒を飲んでいるが、たまにはいいこともあるもんだ」と珍しくほめられたものである。

ページの先頭へ
コンテンツ一覧を表示