学園祖中村ハル先生

学園祖中村ハル物語

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努力は涙とともに

料理の修行に励むハル先生でしたが、関東大震災で大きく計画が狂いました。震災後、校舎もいつ建つか見通しがつかないまま、横浜に赴任してきた大きな目標、中央に出て料理と家事科の勉強を進めることが出来なくなったのです。

「みすみす福岡に帰る気にもなれず困っていたときに、また新しい道が拓けて来たのです。横浜市体育課に勤務されていた先生が、震災後、神戸市兵庫尋常高等小学校に校長として転任されました。この先生が神戸に着任されて、ときの神戸市教育課長に私のことを詳しく話されたとみえて、神戸市から赴任方の打診がありました。」

「今度は京都、大阪、神戸方面でさらに料理の勉強をしたいと念願していましたので、校長に事の次第を話し相談しました。校長もこれを諒とされ、特別の計らいで、神戸市に赴任することが決定したのです。」 ハル先生はこの神戸時代を「花の季節」と表現しています。その名の通り教員生活の中でもっとも充実した日々を送られました。その証拠に自ら「教員としていささか誇り得る業績」とおっしゃる、ハル先生の主義を反映した教師用の参考書と生徒の学習帳を出版なさったのです。

「私としては学校における家事科での指導と、家庭における実際とがピッタリ合うように学校を一つの大きな家庭と見立て、家庭で実際やるように学校において掃除にしろ、整頓にしろ、看護法にしろ、家庭と思って常々作業をさせる方針をとりました。これが家事科指導における私の主義主張であります。」

この出版物が後に神戸にとどまらず各地に広がっていった「神戸市家庭科研究部編集」の「学校を生活の場所としたる家事教育」の出版の礎となったのです。 そんな神戸における華々しい活躍を続けるハル先生は郷里福岡に帰る事になります。福岡師範学校生徒時代に親しく指導を受けた恩師、私立九州高等女学校の創立者であった初代校長が病死され、後任の校長生が教員組織を新しく強化することを重視されます。

「家庭科主任として私に是非就任してくれとのお頼みです。初代校長との約束もあり、いずれは九州高女に御世話になる覚悟はしていたものの、そのころは神戸で最もはなやかに活躍している最中で未練もあり、そうたやすく神戸を離れたくもありません。」

神戸明親女子高等小学校1928年(昭和3年)

神戸明親女子高等小学校
1928年(昭和3年)

明親女子高等小学校で授業中の中村ハル1926年(大正15年)頃

明親女子高等小学校で
授業中の中村ハル
1926年(大正15年)頃

九州高等女学校時代 前列左から4人目

九州高等女学校時代
前列左から4人目

しかし、ハル先生は、公立学校教員生活に別れを告げこの私立九州高等女学校に赴任されました。幾多の苦難にめげることなく、待遇などにこだわらず全力をあげて教育に専念、この九州高女の名声を高めるよう損得を度外視して働き続けられたのです。郷里福岡での苦労の日々もバザーの成功などで多少の喜びが見えていた矢先、福岡大空襲で一転します。学校はプールと寄宿舎を残して全焼。教室がない日々が続いたのです。そんな中、校長が他界され、新校長から「校舎は戦災に会って全焼し、御覧の通りお寺を借りて授業を続けている状態です。このまま卒業生を送り出すのもかわいそうでならない。せめて卒業生なりともしばらくまともな教室で授業して送り出してやりたい。冬の雪空で気の毒だが、例のバザーをやって木造二教室分の純益をあげてくれませんか」という相談を受けハル先生は戦後の物資不足の中、何とかバザーを成功させました。 ハル先生の探究心は留まるところを知らなかったのです。