学校法人中村学園

学園祖 中村ハル先生の想いと記録

学園回想記 中村久雄

福岡高等栄養学校時代

昭和二十九年四月に福岡高等栄養学校は開校した。学園祖中村ハルが秀れた栄養士の養成を標傍し、私財を投じて設置した学校である。その頃九州で栄養士免許のとれる学校は少なく、県立福岡女子大、熊本女子大、長崎の活水女子短大等計六校であった。社会の二-ズに合ったせいであろう、初年度目から百五十名に近い応募者があり、うち百十数名合格という幸先よいスタートを切った。

創立者である中村ハルは当然のこととして理事長・校長に就任した。齢七十歳である。こと教育に関しては誰にも負けない情熱と強い信念とキャリアの持主であったが、私立学校の経営については全くの素人である。しかも学校では、経営の面を担当する専門の職員を置く程の資金的余裕も無く、この方の仕事は当時九州電力KK社員(電気技師:本店勤務)の私の方に廻ってくるような始末であった。銀行からの資金借り入れ官庁関係の手続き、細かいことでは生徒募集の新聞広告等、慣れないことで随分苦労したものである。

さて開校してから後がまた、大変であった。校長中村ハルにしてみれば、この学校を自分の教育理念、信条に基づいて理想的な栄養学校に育てあげたい情熱に駆られている。しかも戦前派の教育者である。一方、生徒の方は「栄養士養成の専門学校が福岡に誕生した。何となく自分の将来に夢を託せる学校だ」位に考えて入学してきている。年令構成も、上は三十歳位から下は十八歳までとまちまちである。勿論大部分は戦後教育派である。このようなことで、新設校のルールを作っていくのに学校側の考えと生徒側の考えにギャップがありすぎてうまく噛みあわない面が多かった。ここに二例をあげよう。

(1)校長は第一回生から制服制帽の着用を考え既にデザインも定めていた。制服の方はさしたる抵抗も無くすんなりと着るようになったが、制帽の方には強い抵抗感を持ったようである。デザインは所謂角帽で戦前の女子医専生のそれと同じであった数十人の生徒は規定どおり作ったようであるが、それをかぶって通学したとは聞いていない。まぼろしの制帽となった訳である。

(2)二年生になって修学旅行でまたトラブルが起った。学校側は通常の修学旅行と違い、食品工場や集団給食の見学旅行だからレポート提出を義務づけた。このときも生徒側が猛反対し、結局学校側が折れてレポート提出はとりやめになったと聞いている。 このように開校当初の段階では対立や緊張の事例が多かった。しかしそのような中で、専門教育や校内生活指導等については学校、生徒一体となって取り組む空気が漲っていたようである。教師陣容も本校の専任以外は、九大医学部、農学部の少壮気鋭の講師にご来講願うという条件に恵まれ、校長中村ハルも自ら包丁を握って直接調理の指導に当るという熱の入れかたであった。生活指導面では、生徒主事に相当する郡司秋生先生(女性)が目を光らせておられ、欠席の多い者、生活規律の乱れている者は一人一人呼び出され、厳重な注意を受げるといった具合であった。

このような環境のもとで学校生活を送り、教育を受けて巣立っていった第一回卒業生の中からは、多数の逸材が出ている。また、個性的な人が多く多彩な顔ぶれである。同窓会で集まる度に、往時の校長中村ハル、郡司先生のこと、学校での出来事等必ず話題にのぼる。

中村栄養短期大学の設立

昭和二十九年四月、福岡高等栄養学校が開校したことは既に前号で紹介した。創立者中村ハルは「頭より、何より人物をつくることが教育の基本である」との信念にたっていたのだが、福岡高等栄養学校という栄養士養成を専門とする学校--所謂職業教育を主体とする各種学校--では教養、品性の涵養において充分でないことを痛感するようになった。そして同じ二年間の教育であれば、一般教育を履修する短大の方が優れていると考えるようになった。
昭和三十一年六月頃、中村ハルは文部省に出向き、既にある福岡高等栄養学校の校地、校舎、設備を母体として栄養短期大学設置の可否について相談した。当時九州地区には短期大学はせいぜい六、七校しかなく、文部省の担当官も軽い気持ちで「頑張ってやんなさい」とむしろ激励される態度であった。

私はその頃九州電力kk大分支店発電係長で単身赴任中であった。部下が十人位いて、技術屋としては割合張り合いのある仕事をしていた。時たま福岡に帰って来て、中村ハルが何か新しい学校づくりに取り組んでいること位は聞いていたが、さして気にも止めず他人事位に考えていた。

ところがである。その年十月初旬頃、自宅から電話がかかって来て至急福岡に帰ってくるようにとのこと。帰って来てみて驚いた。短期大学新設の認可申請書を九月末文部省に提出したが、内容が全くなっていない。至急やり直すようにとのこと。ー力月間、即ち十月末日まで書類の差し替えを許すとのことで、まさに後がないとはこのような状況をいうのであろう。

少し専門的なことになるが、短期大学の新設認可は文部大臣の所管で二通りの申請書を提出するようになっている。一つはその学校の教育、研究の内容を明確にしたもので設置認可申請書と呼んでいる。具体的にどのような教授や助教授が揃われるか、カリキュラムはどのように編成されているかを主体とする。もう一つの申請書はその新設校の経営が健全に維持されるか、財産の状態、校地、校舎は整備されているかを内容とするいわゆる寄附行為変更認可申請書と呼んでいるものである。前者の申請については文部省からの厳しい指摘を受けて、直ちに櫻井 匡先生(後の短大教授・学園理事)や福大教授河原由郎先生(後の福大学長)等のご協力を得て何とか見通しがついたようであるが、後者の学校法人の経営や財産のことになると外部の人には全く判らないし、第一、創立者である中村ハル自身、優れた教育者ではあっても経営のことは全く判らない始末である。そこでこの方は専ら「中村久雄君(当時九電の了解を得て中村学園の学外理事に就任していた)の担当で進めてくれ」とのことである。

隣りの騒ぎを高見の見物とシャレ込んでいたのがいつの間にか渦中に巻き込まれたようなものである。九電大分支店の方でも技術的に非常に難しい仕事を手掛けていたので、その方も放っておく訳には行かず、会社の仕事が済み夕方六時、日豊線大分駅発の列車に飛び乗り、博多駅着十一時、自宅着十二時、徹夜で申請書作りをし、トンボ返りで大分に帰るという過密スケジュールも二回程あった。会社には内緒で「中村栄養短期大学設立準備室長」と名乗り文部省にも足繁く通い、何とかその年の十二月頃には認可についての明るい希望が持てるようになった。

無我夢中の域を脱し気持ちにゆとりができたところで反省してみると、この三ヶ月間、九電社員として全く責を果さなかったばかりか、勝手な振舞いをしたことへの自責の念がつのるばかりである。

一方この学校は銀行からの借入金をかなり抱えているが、これには全て中村久雄の個人保証がついている。万一経営がうまくいかない場合の自分の立場等あれこれ考え、この際会社をやめ、中村学園の経営に本腰を入れて取り組むべきであるとの結論に達したので、同年十二月遂に九州電力KKを退社した。
翌、昭和三十二年一月末、文部省の実地審査も無事済み、同年三月十五日付で認可書を頂き、四月から目出度く開学することができたのである。

中村栄養短期大学の開学を祝って

前回述べたように色々と苦労の末、中村栄養短期大学は昭和三十二年四月無事開学した。学校の中に、二年生は福岡高等栄養学校生、一年生は栄養短大生という移行期に伴う変則的な姿であった。

この栄養短大の開学に至るまでに一方ならぬご協力を仰いだ各界各層に対する謝意を表し、また、この短大の発足を社会一般に披露する趣旨でその年十一月一日開学式が執り行われた。この式典はどこの私立学校でも行われる型通りのものであったが、これに引続き催されたイベントは当時としてはかなり大がかりのものであった。十一月二十三日、二十四日両日にわたる「料理祭り」である。理事長、学長中村ハルが最も得意とされる分野で自ら計画をたてての陣頭指揮であった。この「料理祭り」は二部門から成っており、その(1)各種料理の作品展示会、その(2)食物バザーである。いずれも学校主催で本学の教職員は勿論、中村料理学院の先生方の応援参加も仰いだ。この二日間の「料理祭り」には学外から約七千七百人を越す入場者があり、狭い中浜校舎は人波におしつぶされそうな盛況を呈した。

当時の記録からその主な内容を紹介しよう。

(1)各種料理の作品展示会

  • 特殊病人食の各種
  • バランスのとれた保健食の各種
  • 粉食料理各種
  • 鯨肉その他魚料理各種
  • 大豆料理各種

昭和三十二年頃といえば鯨肉は値段も安くその普及奨励に力を入れていた時代である。今から考えると全く今昔の感にたえない。

    (2)食物バザー

    品種、売値は次のとおりになっている。

    • おぜんざい三五円
    • チャーシュー入り強化うどん四五円
    • フルーツ蜜豆四五円
    • 江戸式五目雑煮六○円
    • 北京焼き飯子 六○円
    • 銘関東煮(註、おでんのこと)七○円
    • 特製カレーライス九○円
    • ミックスサンドイッチと紅茶一○○円
    • お好み鮨一○○円
    • その他果物・菓子

    以上のうち果物、菓子以外の九品目はすべて学校で調理し販売したものである。一品目当たり二千人分とか三千人分という単位で九品目合計二万食は優に越える膨大な量である。学生の大部分はこのバザーに参加し調理作業や来客接一待に当たった。姉妹校の中村料理学院の先生方や生徒有志の応援も得て、何とかこの大事業を切り抜けることができた。このバザー売上高は約百二十万円、純利益五十三万六千円となっている。この利益金は開設当初の学校の設備充実に充てられた。このバザーではまた色々と工夫が凝らされていたようである。即ち、本学のバザーは他校で見られるようにただ単に来客に食べ物を供するだけでは意味がない。栄養短大のバザーという以上は栄養知識の普及にも努めねばということで、各品目ごとに熱量、蛋白質、脂肪、カルシウム、鉄、ビタミンA、ビタミンB1・B2、ナイアシン、ビタミンCの成分表、およびこの食べ物は栄養のバランス上こういう点が不足するのでこのように補うとよいという食事指導付の印刷物まで配り、さすがにとなかなか好評を博したそうである。

    私は当時、栄養短大の事務局長でバザーについては食券販売、来客整理等専ら営業面の仕事をしていた。ところがカレーライス班から「カレーライスの飯を炊く立体炊飯器の具合がおかしい。至急見てくれ」との呼び出しがあった。早速現場に馳けつけ調べてみると蒸気発生のポイラーが酷使されて煙突に石炭の煤(当時重油燃焼式は無かった)がつかえ不完全燃焼の結果蒸気の発生効率が悪いことが判った。煙突の煤を落す作業をしていると今度は会場の方から「唯今、奥村理事(当時福岡市長)が見えているので至急挨拶に来るように」との呼び出し、失礼になってはいけないと急ぎ挨拶に馳けつけたが顔中煤だらけで大笑いになった想い出がある。
    調理担当の先生方や学生がこの二日間不眠不休で頑張っていた光景、中村ハルが白い割烹着をつけ自ら鮨つけをしていた姿を今でも想い出すことができる。

中村学園女子高等学校の誕生

昭和三十二年四月、中村栄養短期大学開学と同時に、創立者中村ハルは自ら学長に就任し教育、研究の充実向上に情熱的に取り組んでいた。ところが一、二年たつうちにおかしなことに気付いた。短大に入学してきた女子学生の態度が全くなっていないのである。永年女子教育に携わってきた中村ハルの頭の中には、女子学生の生活態度はかくあるべきというひとつの規範があるが、それに合っていないのである。掃除のし振りを見ても、雑巾を足の先につっかけて使ってみたり、雑巾の絞り方ひとつ知らない。(当時はまだ電気掃除機やモップは無かった)先生に対する会釈のし方も知らない。マナーが全くできていないのである。

そこでよくよく調べてみると、男女共学の公立高校出身者にそのような者が多いことが判った。公立高校の実態を更に詳しく調べてみると、知育偏重で進学には力をいれているが徳育、特に最も大切な人間教育がなおざりにされていることに気付いた。大きな衝撃であった。教育者である中村ハルは、そこで一大決心をした。よし、それならば自分で高等学校を創り、そこで理想的な女子教育を実践してみよう、ということである。昭和三十三、四年頃のことである。このような動機のもとに創立される学校であるので、当然のことながら中村ハルは、女子のみを収容する女子高校設置の構想を練り始めた。しかし、理想の高校を創る以上は、自分の体験のみに基づく教育理念だげでは不充分である。体系づけられた教育学の理論からの見解をも求めようということになり、九州大学教育学部平塚益徳教授(後、国立教育研究所長・故人)、原 俊之教授(後、中村学園大学長)に男女共学、別学の是非功罪について指導を仰ぐことにした。

その結論を要約すると、「人間十二、三歳位から十五、六歳位が肉体的にも精神的にも性別の発達が最も著しい年代で、中村先生が志向されるような人間の本質に基づく躾や教育を徹底させるには、男女別学の方が効果が大きい」ということであった。
中村ハルは、更に人間教育の根幹をなす校訓として、「清節、感恩、労作」を掲げることにした。この三つの徳目は本大学、短大の建学の精神の中にもとり入れられている。校地の取得、校舎の建築、建設資金の手当て、教員陣容の確立等々困難の連続であったが、それらを何とか乗り切り、県知事の認可を得て開校したのが昭和三十五年四月であった。

ここで、私にとっては一生忘れることのできないエピソードを紹介しておこう。昭和三十六年のことである。開校後やり繰りしながら校舎建築を進め、第三期工事(講堂建築)までは順調だったが、第四期工事(普通教室十六教室増築)に当たってにっちもさっちもいかぬようになった。建築資金調達のめどがつかないのである。校舎建築とか資金確保は私の責任になっていた。当時の日本は、敗戦後の復興から急速な経済の成長期に入っていた。銀行の融資にも順位がつけられ、鉄鋼、機械等基幹産業優先で教育事業は最下位である。明春四月入学してくる生徒を入れる教室の建築資金だからと平身低頭して頼んでも、学校に貸す金はありません、と銀行の冷たい返事が返ってくるだけである。その頃、私は東京に出張する機会が多かった。頭の中は建築のことで一杯であったが、福岡を離れた時ぐらいは気をまぎらわす酒でも飲もうと、大学時代の友人金井君を小料理屋に呼び出した。同君は伊藤忠商事東京本社の部長をしていた。杯を交わすうちに、金井君の方から「中村、君はこの頃私立学校の経営者に変身しているそうだが、学校の方はうまくいっているのか」と問いかけてきた。私は率直に困っている実状を打ち明け「そういうことで、今日はヤケ酒の相手に君を呼んだような訳だ」と謝った。金井君、暫く考えていたが「それならいい方法がある。伊藤忠商事の方で校舎を建ててやろう。支払いは、校舎完成後年賦か何か可能な方法でよい。今度福岡の方に支店が開設されるから、支店長によく話をつけておく」とのことである。地獄で仏とはこのことであろう。福岡に帰って来て早速、伊藤忠商事の支店長に会い、契約を済ませ、校舎の増築工事に着手することができた。中村ハルもこの時ばかりは余程嬉しかったとみえて、「久雄君はよく友達と酒を飲んでいるが、たまにはいいこともあるもんだ」と珍しくほめられたものである。

中村学園大学設立に向けて

昭和三十八年頃には中村栄養短大の食物栄養に関する教育研究も飛躍的に向上し、優れた栄養士を多数輩出するまでに生長した。また、昭和三十五年に開校した中村学園女子高校も完成年度に達し、学校運営も漸く軌道に乗り始めた。創立者中村ハルを補佐し学園経営の実務を担当していた私は、やれやれこれで何とか難局を切り抜けたな-と、ほっとした気持ちであった。

ところがそれも束の間、学園内外の一部の人々から、中村学園はここで、もう一段階ステップアップすべきである。食物栄養に関する高度の教育研究を行う大学を創設すべきであるとの強い要望が起こってきた。中村ハル自身も食物栄養分野を専門とする短期大学を設置した以上、いずれは更に高度のもの、即ち、大学の設立をひそかに期していたようである。

大学設立の機運が起こり、その実現に向けて急速に動き出したについては二つの理由があった。一つは管理栄養土制度の発足である。従来の栄養土より、更に高度にして複雑な栄養業務を担当する管理栄養士制度が、栄養士法の一部改正により制定されたのが昭和三十七年のことである。この管理栄養土養成の指定を受ける学校は、修業年限四年以上となっていた。栄養士養成について既に十年の実績を誇る中村学園が、管理栄養士の養成に乗り出すことは当然のこととして期待されていた。

今一つの理由は、大学の校地確保について、何となく明るい希望が持てる情勢が生まれてきたことである。 ちょうどその頃、県立福岡学園(現在大学、短大のキャンパスになっている所にあった)が、筑紫郡に移転する計画のあることが判った。もともとこの土地は、中村学園女子高校設置の際にも、候補地の一つにとりあげられた曰くつきものであった。

中村学園綜合運営の観点からすれば、この地は当時の中村栄養短大(現在、女子高水仙寮になっている所)と新設の中村学園女子高とちょうど三角形の頂点に当る位置に位し、大学設置には最適の場所と思われた。県立福岡学園移転後の跡地は、是非共中村学園に譲って貰わねばというような空気が、いつの間にか出来上ってしまったのである。このような大学設立へ向けての動きは、学園経営の実務を担当している私にとっては頭の痛いことであった。短大の運営が軌道に乗り、女子高校の建設も一段落したとはいえ、その財政基盤は全く脆弱そのものである。銀行からの融資も限度いっぱいに達しているし財政上の余力は皆無である。

しかし、大勢はそういうことにお構いなく動き始めている。中村ハルも大学設立に最後の(齢八十歳)執念を燃やしている。私自身も学園の将来発展を考えると「天の時」が今であることはよく判る。悩み抜いた末、清水の舞台から飛び降りるような覚悟で、大学設立に取り組む肚を決めた。成算がある訳では無かった。只あったのは「志のある処自から道は開ける」という期待をこめた信念だけであった。

理事会で、県立福岡学園が移転した跡地を中村学園大学用地として払い下げて貰うよう働きかけることが決議され、早速その運動を開始した。

当時、福岡県知事は鵜崎多一氏(故人)であった。中村ハルは直接県知事に会って、自分の教育理想実現のため、是非福岡学園跡地を払い下げて下さるよう陳情した。中村ハルの燃ゆるような情熱と迫力に鵜崎知事も大いに感動されたようで、極めて好意的な対応であった。県の方でもその頃は財政状態が悪く、この跡地売却代金で福岡学園移転費を捻出するという事情もあったようである。

とは言うものの、一万数千坪の県有地の払い下げとなると、そう簡単なものではなかった。県議会の承認も必要になるし、行政上も厄介な問題があったようである。

こんなこともあった。払い下げの事務折衡が緒につきかけた頃、思いもかけず、得体の知れない新聞による中村学園中傷のデマを載せたビラが県庁内にバラ撒かれ、お蔭で折衡が一頓座するような目にもあった。また県議会の了解をとりつけるため、私は自民党から共産党まで各党各会派の議員の方々にいちいちお会いして説明をして廻ったが、緊張と疲れのためか、足が一歩も前に出ず坐り込むような目に会ったこともある。

とにかく難事業であったが、漸く昭和三十九年七月、県立福岡学園跡地払い下げに関する契約を結ぶことができた。この間、短大父兄後援会役員の方々の活動や、中村学園会会長永島武雄氏(故人)が果たされた大きな役割は忘れることができない。

中村学園大学の設置認可

大学を新設する場合、どのような学部を置き、どのような学科を設けるかは重要な決断に属する。前号で述べたように、この大学設置のそもそもの動機が、食物栄養に関する高度の教育研究を行うということにあったので、食物栄養学科を置くことには誰も異論は無かった。

従って学部も必然的に家政学部に落ちついた。ところが文部省が定めた大学設置基準では、一学部に二学科以上設けることとされていた。創立者中村ハルは熟慮の末、他の一学科は児童学科にすべきであるとの決心を固められた。

私は早速東京、関西方面の児童学科を置く大学を訪ね実態を調べて廻ったが、結果は悲観的にならざるを得なかった。どの大学も「四年制大学の児童学科は余り薦めませんね。学生の集まりが悪い。短大の方には受験生が殺到しますがね」という有様なのである。

新設する大学の学部、学科、定員等は理事会の決議を要する。この理事会で、中村ハルは「学部=家政学部、学科=食物栄養学科、児童学科の二学科」で提案された。理事会では珍らしく長時間の論議が重ねられた。私は調べてきた他大学の例を挙げ、児童学科は経営的に苦労の種を作るようなもの、この際、もう一学科として家政学科の方が無難であると主張した。この席で、中村ハルが言われた言葉が未だに記憶に残っている。「私が創りたい大学は、からだ作りの基=食物栄養学科、人づくりの基=児童学科、是非承認して頂きたい」と。理事の方々も創立者の教育者としての夢には抗す術も無く提案通り可決され、ここに児童学科は日の目を見ることになった。実際、発足後七~八年間は案の定、同学科の学生募集に苦労したものである。二十数年経た今日、同学科の発展ぶりを見ると全く今昔の感に堪えない。大学新設に必要な認可申請書類は昭和三十九年九月末、文部省に提出された。いよいよ認可の可否について、文部省内の審査にかかる訳である。審査の過程で書類の不備や差し替えに即応できるよう、文部省との連絡係として櫻井敬君(故人)、前田文敏君(後の大学事務局長、既に退職)を東京に常駐させることにした。

昭和三十九年十一月下旬頃のことである。朝の四時頃電話がかかってきた。大体、この時刻にかかってくる電話は禄なことはないと、不吉な予感にかられながら受話器をとったが、話の内容がさっぱり判らない。確かに東京の前田君の声なのだが、しどろもどろである。私にはピーンと来た。しこたま酒に酔った声である。咄嵯に「おい前田君、この電話は酒のにおいがするぞ、はっきりと話せ」と怒鳴りつけてやった。気を取り直した前田君の話では、今日、文部省大学々術局庶務課に呼ばれ、「中村学園大学が開学に当って用意している校地面積が足りない。この際自主的に申請を取り下げ、出直したらどうか」との指導を受けた。私共二人は事のなり行きに居ても立ってもおられず、やけ酒を呑み、今やっと腹を決めて電話をかけたような次第、とのことである。私にとっても大きな衝撃であった。・・・・しかしここで挫けてはいけないと、自らを励まし気持ちを落ちつかせているとき、ふっと閃めくものを感じた。

不思議なことに、かつて新聞で読んだことがある松川事件(文末尾、註参照)のことを思い出していたのである。ここが上司たる者の値打ちと、わざと落ちついた声で「前田君、そんなに気を落すな、松川事件を見ろ、一審死刑でも二審は無罪になったではないか。きよう日はそういう時代だ。これからが勝負だ、巻き返しにかかるから」と慰め電話を切った。

早速飛行機の手配をし、理事長中村ハルと私はその日のうちに上京、文部省大学々術局、西田庶務課長にお会いした。西田庶務課長も中村ハルの大学創設にかける情熱に強く感動された様子で、親切に指導をして下さった。要するに大学開学に当たり、福岡県から第一期払い下げを受けた校地が狭いということであった。とんぼ帰りで帰福し、今度は県に払い下げ契約第一期分を広くして貰うよう、背水の陣の気持ちで陳情した。鵜崎知事、関係当局の方々も私共の苦哀を察せられ、特別の配慮で文部省要求通りに措置して下さったのである。そのようなことで設置認可は少し遅れたが、めでたく昭和四十年一月二十五日付で頂くことが出来た。

(註)松川事件
昭和二十四年八月、東北本線松川駅近くで列車の脱線転覆事故が起こり、国鉄労組、東芝労組員計二十人の計画的犯行として起訴され一審で全員有罪。うち五人は死刑の判決、二審でもほぼ同様の判決、最高裁で判決棄却、差し戻し審の結果全員無罪の判決、昭和三十八年、全員無罪確定。

大学の開学その後

前号で述べたように文部省の認可を得るにはいろいろと苦労があったが、昭和四十年四月、中村学園大学はめでたく開学した。食物栄養学科、児童学科とも定員を若干上回る程度の第一回生を迎え入れ、まずまずのスタートを切った。その頃の学校周辺は淋しいもので、校舎といえば現在のキャンパス東側にポツンと一棟(現東二号館)あるだけ、前面の道路は狭くてバスがやっとすれ違う程度、雨が降ればたちまちぬかるみに変わるという始末、今日ではとても想像がつかない。

さて、食物栄養学科は発足当初から管理栄養士制度に関することで一つの問題を抱えていた。実は昭和三十七年、栄養士法一部改正により、従来の栄養士よりさらに高度の複雑困難な栄養業務に携わる管理栄養士の制度が発足していたのである。ところがいざ、どのような大学を管理栄養士養成校として指定すべきかという段階で意見が分れ、決論が出ず延び延びになっていた。中には「管理栄養士養成校は大学栄養学部に限るべきだ。家政学部食物栄養系学科は除くべし」という強い意見もあった。本学食物栄養学科は管理栄養士養成施設に指定されることを見込んで開設されたものであるが、学部は家政学部である。もし家政学部が除外されるような事態にでもなれば大変なことである。この時、家政学部を持つ十数大学が集まり、日本私立大学協会内に管理栄養士対策協議会を設け各方面に働きかけることになり、本学もその有力メンバーに加えられた。このような活動が功を奏してか、最終的には昭和四十一年、文部、厚生両省の共同省令が公布され、すでに家政学部食物栄養学科を設置している大学は、その学科内に「管理栄養士専攻」を分離設置すればよいことになった。本学では管理栄養士の希望者が多いことを考慮し、この時の専攻分離では極めて変則的ながら「食物栄養学専攻」10名、「管理栄養士専攻」40名で申請した。しかも本学の場合特例として昭和四十年度入学の第一回生にまで遡って適用する処置を講じて貰った。この時、すでに第一回生は三年次生に進んでいたが、これら食物栄養学科の学生を二専攻のどちらかに振り分ける作業は、関係者にとっては気骨の折れる仕事であった。食物栄養学科はその後定員増を図り、両専攻とも入学定員それぞれ50名となり今日に至っている。

当時のことでこんな笑い話がある。私は前述の管理栄養士対策協議会のメンバーとして、また本学の用件で頻繁に文部省に出入りしていた。お蔭で説田大学課長(当時)とは冗談も言えるような仲になっていた。ある時説田課長いわく「中村先生、この頃あなたの顔を見ると管理栄養士に見えるようになってきた」と。会う度に私が管理栄養士云々と切り出していたからであろう。私も負けずに「それはそうですよ。私はもともと管理職にあるええ養子(実際私は中村ハルの養子)ですからね」と。お互い大笑いになった。まるで下手な博多仁輪加である。

昭和四十六年九月、創立者であり初代理事長、学長の中村ハルは偉大なる足跡を遺して八十七歳の生涯を閉じられた。そのあとを受けて私が二代目理事長に就任、又暫定的に学長を勤めた。昭和四十七年四月からは原俊之先生が学長に就任された。原俊之先生は九大教育学部長も歴任され、いわゆる教育界の大御所的存在であった。中村学園とは以前から関係があり、理事会としても、低迷気味の大学児童学科の浮揚を図るには最適の方として学長就任を懇請したのである。

原学長就任後は、学園経営の好転もあり、児童学科の内容は見違えるばかりに充実し、入学志願者も段々ふえてきた。昭和五十年度からは入学定員を50名から100名にした。漸く明るい曙光が見え始めた。その頃、私は他大学の児童学科を調べているうちに、小学校教員養成コースに人気が集っていることに気付いた。このことについて学内で研究し手を付けたら如何かと提言したが、いろいろの都合で一向前に進まなかった。昭和五十三年になりようやく児童学科の専攻分離の準備も整い、翌五十四年度から「児童学専攻」、「児童教育学専攻」の二専攻に分離された。当時、九州地区の四年制私立大学で小学校教諭一級免許が取得できる学科を設けているのは本学だけであった。そのためか志願者も急激にふえ、かなり優秀な学生が、また男子学生も多数入学するようになった。当時の学生はすでに小学校現場で大いに活躍し、秀れた実績を挙げている卒業生も多いと聞いている。まことに喜ばしい限りである。

移り変わり

中村学園大学が発足して間もない昭和四十年代前半期、国公私立のほとんどの大学でいわゆる民主化闘争の嵐が吹き荒れていた。あの有名な全学連の活動で大学紛争は最高潮に達していた。本学は小さな大学で、しかも女子学生が大多数を占めていたせいか、それほど尖鋭的な動きは無かったが、全く無風地帯という訳でもなかった。学生の一部には何かにつけ学校の方針に反抗的態度をとる者もいた。近くの九大教養部(中央区六本松)はその頃大学紛争の一つの拠点になっていたが、本学もその余波を受けるのではないかと、教職員は随分神経をとがらせていたものである。当時を振り返り、あの大学紛争は一体何だったのだろうかと不思議でならない。

そのような混乱の時代ではあったが本学は着実に拡大発展の途上にあった。昭和四十年代初期の頃の学園の姿は、大学は現在地-城南区別府のキャンパスに、既設の中村栄養短大(昭和三十二年開学)は大学から約五百メートル程離れた上中浜町一丁目(現在中村学園女子高水仙寮のあるところ)にあった。この二校の分散は好ましいことではない、いずれ大学、短大を別府キャンパスーケ所に纏める必要があるとの意見が強くなってきた。それならばこの際、志願者急増傾向にある短大において学科増を計画したらということになり、昭和四十一年の理事会で家政科増設が決議された。大学の学部が家政学部であることから自然と短大家政科に落ちついたのである。文部省に認可申請し翌四十二年四月、家政科は発足した。私は当時、学園理事、大学・短大事務局長を勤めていたが家政科のあり方については私なりの考えを持っていた。学科内を更に専門的なコースに分け、おのおの特徴を持つようにするという考えである。学内で種々検討の結果、食物コース被服コース、そして全くユニークな消費経済コースの三本建てでいくことになった。ところがいざ入学生を募集してみると、食物コースは圧倒的人気があって志願者が殺到するのに、消費経済コースはさっぱりで定員を充たすのに四苦八苦する惨状であった。二十数年経た今日、これが全く逆転し、消費経済コースの人気の高いのにはただただ驚くばかりである。明らかにハードからソフトの時代へと世の中が変ったことを実感する。

昭和四十二年三月、別府キャンパスに中央本館、東一号館、中央南館、旧西一号館が竣工し、現在見られる大学、短大校舎の約七〇%が完成した。かねての計画通り短大もこの別府キャンパスに統合されることになり、まず最初に中村栄養短大が前述の上中浜町から移転してきた。東側の校舎を短大が、西側の校舎を主に大学が使うことにし、中央部の校舎は共用ということになった。

短大も既設の栄養科(中村栄養短大栄養科)と家政科の二学科を擁するようになり、中村栄養短大では実態にそぐわないので、今日使われている中村学園短期大学へと校名を変更した。なお家政科は発足後暫く栄養短大の跡の上中浜校舎を使用した。

その頃、高校卒業女性の短大進学希望の傾向が一段と高まってきた。これは日本の著しい経済成長と共に各家庭が豊かになってきたことに因るものと思われる。本学園でもそのような時代の要請に応え、短大にもう一学科増設しようという機運が強まってきた。色々の角度から検討が加えられ、更に文部省内一、二の方の意見をも参考にし、最終的には幼児教育科増設に決定した。幼児教育の重要性が認識され始めていた時代でもあり、また大学には既に児童学科が設置されており、経営的にも、教育研究の面でも一層の充実向上が期待できるということがその主な理由であった。

昭和四十三年、短大幼児教育科増設の申請書を文部省に提出したが当時、学園の財政は極めて厳しい状況のもとに置かれていたので止むなく入学定員を最低の三十名に絞っての申請であった。同学科は昭和四十四年四月発足し、その後順調な成長を遂げ、今日入学定員は二百四十名に膨らんでいる。子育てに関して俗にいう「小さく産んで大きく育てよ」とはまさにこのようなことであろう。

〔あとがき〕
大学、短大の沿革を中心にして、それにいくつかのエピソードを混じえながら編を重ねてきたこの回想も今回を以て完結としたい。本学園ではその後昭和五十四年、大学付属壱岐幼椎園を開園、昭和六十一年、中村学園三陽高校(男子校)、同六十三年、三陽中学校(男子校)を開校する等目下発展途上にはあるが、これらに関して述べることはいささか脇道にそれるような気がする。また本大学大学院栄養科学研究科(修士課程)はまだ誕生したばかりで回想どころではなく、これも割愛することにした。