学校法人中村学園

学園祖 中村ハル先生の想いと記録

中村学園資料集

中村学園 資料室

1995(平成7)年、西1号館4階図書館内に「学園資料室」が設置されました。学園の歴史を正確に後世に記録として残すため、中村家から提供された学園祖中村ハル先生及び学園に関する写真、その他種々の資料を中村久雄氏(第二代理事長:1971(昭和46)年9月~1993(平成5)年9月理事長在任)が約1年半かけ整理、収納したものです。

資料室はその後2008(平成20)年10月に現在の1号館2階に移転し、「学園資料展示室」として整備されました。
資料室には、自伝『努力の上に花が咲く』の直筆原稿、福岡高等栄養学校時代の制帽・バッジ、ハル先生が使用していた机、椅子、文具類、『学校を生活の場所としたる家事教育』ほか各種の著書や教材、成人の日を迎えた学生や卒業する学生へ記念に贈られた色紙、入学式・学園創立記念式典・卒業式での訓話の直筆原稿、各式典での訓話音声テープや各祝賀会の映像フィルムなどを保管、展示しています。

学園祖中村ハル先生については、自伝『努力の上に花が咲く』(1972(昭和47)年9月1日発行)、DVD『原点―学園祖中村ハルの生涯―』(2004(平成16)年作成)、『ハル先生―学園祖中村ハル物語―』(2008(平成20)年5月1日発行)、中村久雄氏については、『自叙伝 二つの世界を生きて』(2002(平成14)年10月1日発行)があります。
また、中村学園の歴史については、創立10年ごとの節目に編纂された、『中村学園十年の歩み』、『中村学園二十年誌』、『中村学園三十年誌』、『中村学園四十年誌』、『中村学園50年史』、『中村学園60年史』があります。

学園祖 中村ハル自伝 努力の上に花が咲く

「学園祖 中村ハル自伝 努力の上に花が咲く」

中村ハル自伝「努力の上に花が咲く」は昭和四十五年、中村ハル先生ご逝去後の昭和四十七年に発行されました。「努力の上に花が咲く」の言葉どおり、八十年にわたるたゆまざる努力が開花していく道程がありありと描かれています。

ハル検定

クイズ形式でハル先生の教えを学ぶことができる「ハル検定」。ぜひ挑戦して、ハル先生に対する興味を持つきっかけに、そしてより身近に親しみを感じてもらえれば幸いです。

新任教師として赴任した直方高等小学校で、清潔整頓を重んじ手がけたのはどこの掃除でしょうか?
①運動場 ②教室 ③トイレ
正解は、トイレです。
当時十九歳のハル先生が提唱して、先頭に立って全校生徒と掃除をしたのは、トイレでした。トイレ掃除をすることでトイレの使い方を学び、多くの人が気持ちよく使用できることを教える衛生教育の一環であったことと、トイレをきれいに磨くことによって感謝する心も磨いていたのでした。この教育方針は、中村学園の建学の精神にある「感恩の情にとみ」につながる実践教育として、現在も受け継がれています。
赴任先の横浜市岡野尋常高等小学校には、家庭科で調理の授業をするための十分な設備がありませんでした。そのため、ハル先生が自ら工夫して考案したという設備は何と呼ばれていたでしょうか?
「中村式移動水流し」です。
ハル先生の考える家庭科のあり方として、理論的な知識だけでは不充分であり、実習を通して技術を体得させて、人創りを進めるべきだと考えていました。しかしながら、その実習を行う設備が整っていなかったため、「中村式移動水流し」という設備を自ら作りました。 ハル先生が困難な状況に遭遇しても、そこで諦めるのではなく、創意工夫をこらして乗り越えていった象徴として、中村式移動水流しのレプリカが中村学園大学七号館二階に設置されています。
ハル先生が福岡を飛び出して横浜に出てきたのには、教員としての道を究めることの他にもう一つ、料理の研究をするという目的がありました。多くの一流料理店を訪ね歩きましたが、その中でもハル先生が最も驚いたとされ、後の中村ハル式カレーの基となったインド式カレーライスを提供している料理店はどこでしょうか?
明治三十四年創業の老舗、新宿中村屋(東京都新宿区)です。
純印度式カリーを食べ感動したハル先生は、持ち前の探究心から調理法を学びたく、調理場の見学を願い出ましたが、きっぱりと断られてしまいます。しかし、諦められないハル先生は考えを巡らせ、中村屋の一人娘の養子婿ビハリ・ボースが印度の独立運動に身を投じて亡命して、来日後困っていた際に彼をかくまい中村屋に婿入りさせたのが、同じ郷里西新町出身の頭山満氏であることに気が付き、頭山氏の紹介で調理場へ入ることを許可されました。ここで学んだカレーライスを基本とし、日本人の好みにより合うよう独自にアレンジして完成したのが中村式カレーです。
ハル先生は独自の家事参考書「学校を〇〇の場所としたる家事教育」を出版されていますが、〇〇に入る言葉は何でしょうか?
「学校を”生活”の場所としたる家事教育」という参考書です。
神戸時代に出版されました。この頃の高等小学校の家事科の指導は、理論はよく組み込まれていましたが、家庭で実際に行うことと合っていないことが多くありました。これでは何のために家事科の勉強をしているのか分からないため、学校での教育と家庭での実際とがぴったり合うように、学校をひとつの大きな家庭と見立てて、家庭で行えるようにと学校での指導を行われました。
例えば、授業で清潔整頓を教わったら、校舎内外の掃除も自分の家を綺麗にするのと同じ気持ちで掃除をしたり、洗濯法を教わったら、学校のカーテン、宿直室のシーツ、テーブルクロスでも何でも、汚れているものは自分の家庭のものと考えて綺麗に洗濯してアイロンをかけたりしました。調理についても、自分の家庭でやっているという考えで、野菜なども育てながら実習をさせました。今では、本学の建学の精神「学問と生活の融合を重んじた教育・研究」に通じる教育法に通じています。
中村学園大学はいつから現在と同じ男女共学となったでしょうか?
中村学園大学を女子大学だと思っている方がいらっしゃるようですが、中村学園大学において女子大学だった歴史はなく、昭和四十年の開学時から男女共学校として多くの卒業生を社会に輩出してきました。ハル先生は中等教育における男女別学教育について、教育的な優位性を認識されて中村学園女子高等学校を開校されています。大学が女子大だと勘違いされる理由の一つとして、この女子高等学校のイメージがいつの間にか大学にも影響したことが考えられます。このような勘違いは女性にとっての品性や清楚さ、「調理の中村」「食の中村」といったイメージが世間に定着して、一般化している証拠でもあるかもしれません。
ハル先生は、入学式や卒業式の訓辞の際に独自に考えられた「日の丸の十二徳」について話されていました。それはなぜでしょうか?
①白地に真紅といったシンプルな配色が好みだった
②日の丸と教育の理想である日本人としての人間形成目標を重ねて考えていた
③国旗のデザイン性を気に入っていた
ハル先生は、「日の丸」が表現する美しさの中に、「教育の理想である日本人としての人間形成目標が示されている」と考えられていました。日の丸の十二徳では、「真紅」が情熱、博愛、活力を表し、「白」が神聖、純潔、純真、平和などを意味すると定義付けられています。日の丸に象徴された精神性が、まさしくハル先生の生き方そのものであったのではないでしょうか。このように、無私、利他の心で教育に対する炎のような情熱を生涯捧げ続けた努力の方でした。

学園回想記 中村久雄

第2代中村学園理事長中村久雄の学園回想記をご紹介します。

学園回想記 中村久雄