学校法人中村学園

学園祖 中村ハル先生の想いと記録

学園祖 中村ハル自伝
努力の上に花が咲く

第2部 
料理研究に燃やす執念

2-1 弟、関次郎の死に誓う

明治四十二年十二月に弟関次郎が発病したことはさきに述べたとおりですが、家庭の都合と本人の希望で、その後、転地療養を続けさせました。療養先も、末弟専吉が住んでいた糸島郡波多江にしたり、あるいは、深江の方に移したりしました。もちろん、この間の療養費は私の負担でまかないました。ときには遠く別府の温泉治療にやるなど、とにかく本人の気の向くままにさせたのであります。
このころのことを、弟が私淑していた友人の安川第五郎先生が覚えておられて、後日話ですが「関ちゃんが別府の帰りに戸畑の自分のところに寄って、筑前琵琶を弾いて聞かせてくれたのが未だに耳に残っている」といわれたことがあります。発病して九年目ごろにはほとんど病気もなおり、身体の調子もよくなったのであります。

そこで、弟としては、沖縄の未開地に行って一事業を起こし、姉や私、そして末弟、父親に世話になった恩返しをせねばと、心に決めたのでありましょう。急に、沖縄に行きたいといい出したものです。私たちも気候が暖かく、それに土地を変えるのもかえって良いのではないだろうかと考えて同意いたしました。しかし、あとになって判ったことですが、これが大失敗だったのです。炎熱焼くが如き沖縄の気候は、肺結核にはかえって悪く、十年間も苦心して養生させたのがすべて水泡に帰し、再度病気が悪化したのであります。沖縄から電報が入ったときは、すでに病勢も極度に悪くなり、遂に大正十年四月、はるか遠く僻地の沖縄で不帰の客となつたのであります。十二年間、ただただ弟の恢復だけを祈り、青春を捧げてきた私です。気持ちの張りを一度に断たれ、自分を失い、何度か死場所を考えたこともありました。しかし、いやいや、ここで自分が死んだりしてはいよいよ一人の父に迷惑をかけると思い直しました。
いくら悔んでも、死んだ弟は帰って来るものではありません。また弟のためには十二分のことをしたつもりですし、これも運命と諦めて、強く生きる道を選ぼうと決心いたしました。

弟は私が転地療養先に療養費を持って、時たま訪れると、いつも涙を流して押し頂き、帰りには私の後姿を手を合わせて拝んでいたそうです。沖縄の地で病態が悪化し、死期が近まってから私に送った手紙の中に

「病床について十数年のながい間、母代りとして姉さんに本当に御世話になりました。この大恩は、たとえ死んでも忘れることはできません。不幸にして、私は先立つことになりますが、霊魂不滅を信じています。私の霊魂は必ず残って姉さんの生涯を守り抜き、せめてもの御恩報じをいたします」

と、いい残したのであります。このことも私を大いに力づけてくれました。
このころ、私は松崎実業女学校家庭科教諭をいたしておりましたが、本来が家庭科専門の道は通ってきていませんし、田舎の方にくすぶることも気が進みません。弟も遂に亡くなって、その点は身軽くなったといえます。年齢は既に三十六歳、いまさら結婚しても後妻におさまるのが関の山と考え、ここに生涯を教育の道に捧げる決心を新たにしました。

2-2 中央へ出る

松崎実業女学校には家庭科主任の教諭として迎えられたのですが、私の教員としての過去の経歴は、家庭科専門ではありません。何とかこの方面の勉強をせねばと、かねがね思ってはいましたが、田舎に引っ込んでいては、それも思うに任せない状態です。東京方面に出たいと思っていた矢先に、弟の死が一つの転機を作ってくれたのでした。一生を教育の道に捧げ、ひとつ優れた家庭科の教員たらんと志を立てました。

ちょうどそのころ、横浜市の教育課長が福岡師範卒業の児崎為槌先生で、そこの視学が私の付属小学校訓導時代に主事をしておられた中川直亮先生。おまけに横浜市の新設校岡野尋常高等小学校長には、元福岡師範付属小学校の訓導で、私が師範生時代教わった久芳龍造先生がいられるということを知りました。早速、中川直亮先生に事の委細と中央に出て勉強したい気持ちを書いて送りました。付属小学校訓導時代の私の努力や働き振りをよく御存じの中川先生は非常に喜ばれて、すぐにでも横浜市岡野尋常高等小学校訓導に採用したい旨の返事を寄越されたのであります。私も、こんな好都合なことはまたとない。これも亡くなった弟の霊の引き合わせかと喜び、松崎実業女学校長山田先生の許しを得て、単身神奈川県の方に赴任することにいたしました。

もちろん、父親や姉の保坂タミともよく相談してのことでしたが、このとき姉がいってくれました。「どうせ結婚など考えないで、好きな教育の道に一生を捧げる決心をしたのだから、それはそれで一つ頑張ってごらんなさい。その代りに、老後のかかり子として、私の四男久雄が少し利口そうだから、これを将来養子にやりましょう。」これで、私も後顧の憂いなく働かれるようになりました。このときの久雄君(当時四歳)が後日、私が私学の設立、経営に乗り出すようになったとき、事務局長として大いに私を助けてくれたのであります。

2-3 岡野校の”中村式移動水流し”

大正十年四月十六日付けで神奈川県へ出向の辞令を下付されました。月俸は一足飛びに九十円に上がりましたが、このころ小学校女教員でこれだけの高給取りは横浜市には私以外一人もいませんでした。田舎の福岡県から赴任早々最高の待遇を受けたわけですから、私自身も大いに感激し、責任を感ぜずにはいられません。大いに活躍して、福岡師範卒業生の名をけがさぬよう心に誓ったものです。

ところで岡野小学校の高等小学校の方の家庭科を担当したのですが、料理を教えようにも何一つ調理の設備はなし、困り果ててしまいました。設備がないからといってほうっておくわけにも参らず、ここで中村式移動水流しという面白い設備を工夫考案しました。校長の久芳先生に相談すると、それくらいの費用は出そうとのことで安心しました。

この移動式水流しというのは、調理をするときに一番大切な流しを移動式にし、足にピアノの車をつけて棚も作りつけ、上の段には洗った器具が置かれるようにし、また杓子などは吊られるように釣り金具をっけました。下の段にはスリ鉢やザル、砥石などを置くようにしました。流しそのものはトタンで内張りし、鍋や釜、茶碗などが洗われるようにしました。給水、排水にはすべてゴム製のホースをそれぞれ一本宛つけて、排水用のゴムホースは長目にして教室の外の庭に流されるよう考えました。給水用のゴムホースは直接水道管につながるようにしたのです。

この移動式水流しは平素廊下においていて、いざ料理の時間になると教室の中央に移動させ、そのまわりに生徒用机二個を突き合わせて一台の実習台にし、これをズラッと並べて実習室に早変りさせる仕組みであります。
実習のときに机が傷まないよう水はじきの良いカバーで机の天板を覆い、その上に爼や庖丁、その他の道具を置いて実習にかかるように考えました。ところが庖丁が一本もないのです。このころの東京、横浜ですら、高等小学校の家庭科では理論だけで、掃除の仕方や料理にしても、正式に実習などはなく、従って爼もなければ庖丁もないのが実状でした。

私の考えでは、家庭科のあり方として理論を説き、科学的な掃除の仕方や看護、衛生、調理の知識を持たせるのももちろん大切だけれど、それだけでは不充分で、更に一歩進めて、これらの実習をとおして、技術を体得させ、実習を通じて人創りをすすめるべきだとしていました。庖丁一本、爼一枚なしでは実習どころではありません。

そこで、当時教育界一流の校長といわれた久芳龍造先生に、このみじめな実状をじかに観ていただき、大いに応援してもらって、せめて姐と庖丁くらいは必要数揃えてもらいたいとの一念から、校長先生に、私が実地授業をやりますから是非参観願いたいと申し出ました。熱心な久芳先生は大いに喜ばれ、期待されて、いよいよその当日になったのです。

このときの模様がなかなか傑作でした。教室と言っても、普通教室の中央に、私の考案になる移動式水流し台を据え、排水、給水ができるようにホースをつないであります。実習台は生徒机二個で、一台のにわか造り。その上にカバーをかぶせ、爼(まな板)がないので代りに厚手のボール紙を爼の大きさに切って据えてあるというぐあい。庖丁は家庭から菜切庖丁を持って来ている者も居るし、都合のつかない者は止むなくナイフで間に合わせる者もいるといったありさまでした。さて、いよいよ大根や菜葉の切り方練習から始まりました。ところが、本式の爼でなくボール紙の上で切るものですから思うように切り刻まれません。なかには、もしや机に傷がついてはと、時々ボール紙爼を持ち上げては下をのぞき込む者もいる始末。

三十分間くらいは久芳先生も喜んで参観されておられましたが、このチグハグな実習風景に嫌気がさされたのか、授業の途中でさっさと引揚げて行かれました。私は、これは授業がまずかったのかな一と心配でなりません。やがて、授業を終えて、早速久芳先生のところに授業の批評をうかがいに行きました。ところが、先生は顔を真赤にし頭をおさえていらっしゃいます。
「どうも中村さんすまなかった。僕は男だもんで、家庭科の実習についての考えが足らなかつた。なるほど調理の実習には爼も要るし、庖丁も要る。あなたが考案した流し台と爼と庖丁、鍋、釜、コンロなどは、これら実習に欠かせない基礎の道具で、これらが揃ってないことには実習ができないことを、マザマザと見せつけられました。実は恥かしくなって、あの場に居たたまれず、ほうほうの体で逃げて来たようなしだいです。早速、実習道具を全部揃えるから遠慮なく申し出なさい。その上で父兄会の幹部の方々に相談して、とにかく揃えましょう」

私も嬉しくなって、直ちに必要な器具類を書き出しました。お陰で学校の方で全部揃えてもらう運びになりました。教師の一念岩をも通すというところです。
大正十年ごろの東京横浜あたりの家庭科の実習がこの程度では、まったく話になりません。
いわんや、地方の都市や農村はおして知るべしであります。

2-4 東京で料理修行

私が福岡を去って横浜市に出て来たのには、もう一つ大きな目的があってのことでした。
それは昼間は教員として学校の職に奉じ、夜間、日曜日、長期休暇には、東京や横浜にある日本料理、西洋料理、中華料理店の一流と目されるところの料理人から指導を受けたいという念願があったからです。実際に、夜間や、日曜日は京浜電車に乗って東京に出かけ、一流の料理長やコックさんについて親しく学びました。

名物料理の店と聞けばそこに入り込んでじかに学んだものですが、そのうちの数例をここに披露しておきましょう。

(1)西洋料理はまず一番に帝国ホテルに入り込みました。今日では東京にも随分大きなホテルができておりますが、大正十年ごろではホテルといえば帝国ホテルが代表で、洋食は帝国ホテルといわれたものです。横浜で懇意にしていた石川女史に頼んで料理長に紹介してもらって、入り込むことができました。この方は腕もすぐれていましたが、また人物も立派な方です。コックさん方が料理を作っておるのを見せてもらっては、その料理長に質問をし、ノートしていきました。ソースの秘法は直接教えてはくれませんでしたが、それでもいろいろと見聞きして、ドゥミグラスソースやブラウンソース、トマトソースやマヨネーズソース等々と習得いたしました。

(2)中華料理は雅叙園で教わりました。このころは雅叙園が新築店開きしたばかりで、建物は東洋一といわれるくらいでした。それにもまして、内部の装飾が、これまた素晴らしいものでした。絵なども一流の画家のものばかりで、まるで極楽浄土にでも遊んでいる気がしたものです。料理は北京料理と上海料理でしたので、両方とも勉強することができました。これら勉強したものは細大漏らさず記録したものです。

(3)日本料理はあちこちで教わりましたが、強く印象に残っているのは、両国橋のたもとにあった料亭中村です。国会議員の宴会などよくあつていました。私が見た一番大仕掛かけの宴会は、国会が終了して大正天皇から鯛の下賜があったときのことです。このときの料理は、大阪でとれたスッポンの料理や大鯛の生作り、その他、珍しい料理ばかりで、これにお給仕はお裾引きの紋付、丸帯姿の芸者さんで、さすがに東京だな―と、その豪勢さに舌をまいたものです。このような大物をこなしきる調理の大家がいられる東京は、よい稽古場なのです。

そのほか、休日には、東京の料理店で味の良いところを食べ歩きしたり、腕の達者なところに入り込ませてもらい料理長や料理人の腕を盗み歩いたものです。盗み歩くというと、いかにも聞えは悪いのですが、鮨でも、天ぷらでも、何でも、東京一との評判をとっている店に入り込むことは、料理の研究を志す者にとっては非常に参考になることが多いのです。鮨ひとつにしても、一流の鮨屋の主人になると、幾十年もの間、鮨だけに熱中して苦労と工夫と研究を積んできておられます。これを見せてもらい、いろいろと指導を受けると、その道の名人の幾十年にわたる成果が一度に吸収できるわけでまことにもって好都合なのです。すまない気がいたしましたが、そのような要領で勉強しました。

(4)東京で一流のある鮨屋の例をあげてみましょう。浅草観音様近くにそのころ数十軒の鮨屋が並んでいましたが、そのうちの一軒だけはいつも満員盛況です。そこで私もその店に入って食べてみましたが、酢の加減、塩加減、甘味の加減、それに飯の炊き方、何ともいえない出来栄えです。
これは是非教えてもらいたいと決心し、店のご主人に会ってお願いしましたが、なかなかうんといって承知してくれません。大切なコツを盗まれては商売上ったりになりますとの返事。私はなおもねばっていいました。

「私は横浜のある高等小学校の先生で、決して鮨屋を始める者ではありません。家庭科の教育の参考にするに過ぎないのですから、是非お宅の鮨のつけ方を拝見させていただきたいのです」

と、少々の謝礼を出してお願いしました。ご主人もこれは感心な先生と思ってか、今度は気持ちよく許してくれ「それでは奥に入って鮨をつけているところを御覧になったらよいでしょう」といってくれました。私は飛び立つ思いで、「お許し下さいませ」と奥の調理場に駆け込みました。

まず御飯を高圧釜でふわふわと上手に炊いているのが目につきました。しかし、ここで最も感心させられたのは、鮨の調味料の加減と鮨のつけ方に工夫研究が積まれていることです。さすがに十五、六歳から五十幾歳まで三十五、六年間、鮨一途に凝って研究苦労したな一と感じ入りました。

ここで、その店の鮨のつけ方を披露しておきましょう。

(イ)まず合せ酢の調合
米一升(九カップ)にっき
米酢一合三勺(一・ニカップ)
塩八匁(三〇瓦)
砂糖二十匁(七五瓦)
味の素少々

この分量は人により幾分の差はあっても構わないが

(ロ)一番大切なコツは釜からとり上げてすぐの温かいご飯の温度と、酢、塩、砂糖、味の素を鍋に入れて熱を加え、これがやっと溶け合ったときの温度が一致しなければいけない点です。

つまり、あついご飯に、それと同温度の合せ酢を一方から順々に振りかけながら、杓子で軽く混ぜ続けてつけ終り、大体合せ酢がよく混り合ったときに、急に上の方からうちわであおぎ下ろし急に冷やす。こうすると鮨の風味と飯粒の艶が出るところが、この店のコツでした。それに、この店では千客万来なものですから、人手をかりてうちわであおぐくらいでは間に合わず、天井に大うちわをつけてこれを電気仕掛けで動かす工夫も凝らしていました。
鮨は急に冷やすと飯粒が立つとか艶が出るとかいいますが、なるほどとうなずけます。その鮨を握りにしたり、押し鮨にしたり、盛りつけにすることはどの店でもやっていることで別段珍らしいことではありません。
私はよく中村式鮨として、学校や講習会で紹介してきましたが、そのつけ方はこの浅草の鮨屋の方式をとり入れており、鮨そのものとしては、いまひとつ神戸の八雲鮨を参考にしています。

ついでに、ここで記録に残しておきましょう。

(ハ)神戸の高級八雲鮨
この八雲鮨は東京鮨よりいっそうご飯がやわらかで、しかも飯粒が少しもこわれず、何ともいえない風味があります。これは上等の出し昆布の水だしを作り、この昆布だし汁でご飯を炊くからです。
そのだし汁の濃さは、およそ水十カップにつき昆布二十センチ(巾は普通)程度の長さのものを使います。最初に昆布の塩気をよく拭きとって、これをボールに入れ、この上から冷水十カップを強く打ちかける。そしてその後、水をすくっては昆布に打ちかけることを数回くり返し、それが終るとそのまま二十分間位放置しておく。すると、おいしい昆布のだしが水に出てくるわけです。このとき気をつけねぱならぬのは、昆布を余り長い時間水に浸しすぎると、いわゆる昆布が風邪をひいてヌルヌルが出てきて風味をこわすことです。二〇分くらいつけてヌルヌルがでない程度でボールから昆布を引き上げ、このだし汁を使ってご飯を炊くのです。

八雲鮨は角型に打ち込んで長方形に切って出すのですから、ご飯はかた目よりも少々やわらか目の方がよい。ただこのとき注意せねばならぬのは、合せ酢を混ぜるときご飯がやわらかいのでよほど慎重にやらないと、ご飯粒がくずれてしまって糊のようになり、こうなると食べられたものではありません。
この神戸の高級八雲鮨は、明石でとれた生鯛を三枚におろし、胸骨をとって酒の中に塩・砂糖・酢少々を合せた中につけこみます。この味つけした鯛を刺身型に切ってご飯の上にのせ、肴とご飯の間にワサビを少々入れて押し型で角型に押し出し、適宜長方形に切って、これを一人前宛皿に盛って出すのです。別に、何ひとつそえ物はつけない鯛鮨ですが、大阪風の具のゴテゴテした鮨とは違い上品で、天下の珍味といわれる鮨料理だと思います。

(5)新宿中村屋の印度式カレーライス
いろいろと食べあるきして最もびっくりさせられ、また思い出の深いのは新宿駅の近くの中村屋というパン屋の特殊料理である純印度式カレーライスについてであります。俗にインデアンカレーライスといっていました。
ここのカレーライスは日本一だという評判ですから、料理研究を志していた私としては、何としてでもこのインデアンカレーライスの全貌をつかまねぱ腹の虫がおさまりません。ある日曜日の朝、この中村屋を訪づれて、まずパン屋の奥の間のカレーライスの店に入り注文いたしました。

普通、日本式のカレーライスはメリケン粉でドベリをつけている加減か、御飯の上にかけた姿を見ると、まるで猫のタバキ(吐き物)のかかった感じで、私なんか口をつける気持ちが起こりません。ところが、皆さんはこのタバキのようなカレー煮をスプーンで御飯にまぜてさもおいしそうに飯べておられます。
本式の印度式カレーライスは、そんなドベドべしたものではありません。 給仕人が持って来た中村屋のを見ますと、飯一人前と別にカレー煮の方は綺麗なカレー鉢に盛って盆の上に飯皿と並べておき、スプーン一本そえているのです。

なるほどなーと、第一番に感心しました。聞けば、カレーライスそのものは実は印度人の食べる雑炊だそうで、印度や南方方面の酷暑の地ではカレー粉を炊き込んで舌が切れるくらい辛味をつけて食べねば辛抱ができないところがら、印度や印度シナ方面ではこの料理が好まれているとのことです。
そこで、まずカレー煮の方を調べてみました。姿はドベドべしないでサラサラしていて、日本の吸物にちょっと粘り気のある程度。一口味わってびっくり、辛くて辛くて目の玉が飛び出るとはこのこと。いかな私も閉口しましたが、その辛味のなかにいうにいわれぬ旨味を含んでいます。

中の具を調べてみますと、(1)鶏の骨付き身二切れで、これはちょうど日本の水炊きのときの鶏肉くらいの大きさで、口に入れると簡単に身と骨がはぐれます。(2)大切りの馬鈴薯二切れ一これも形は大きいが、フワフワと煮えて口に入れるとすぐとろけるほどあとは玉葱五、六切れです。

汁の方は何かミジン切りみたいなものが少々混っているだけで、サラサラと黄褐色ですが、その辛味とうま味の配合は何ともいえません。

さすがに日本一といわれるほどのことはあると感服いたしました。
一人前食べ終っていろいろ考えました。このカレーライスの味は何からとった味だろうか? まさか鶏肉や玉葱だけであれだけの味は出るものではない。私の探求心からこのままですむはずもなく、思い切って帳場に行き調理場の見学を願い出たのであります。ところが、キッパリと断わられました。

しかし、何としても諦め切れません。横浜に帰って、日夜このことを考えているうちに一計を考えついたのです。―――それはこの中村屋が本来パン屋であるのにカレーライスを営業して天下に名をなしているのは、中村屋の一人娘の養子婿にビハリ・ボースという印度独立の志士がいるからであろう。このビハリ・ボースならば、印度の独立運動に身を投じて英国の官憲の目を逃がれている身です。日本に上陸して以後、困っているときに、私と同じ郷里西新町出身の頭山満翁がかくまってやり、その後この中村屋に婿入りさせたと聞いている。よし、ここは一つ頭山満先生の御力添えを願おうと―――。

これはよいところに気がついたというわけで、早速頭山満先生の屋敷をたずねて行きました。カレーライスの話をして、その調理法を教わりたいので、是非調理場に入れるよう取り計らってくださいと訴えました。頭山先生も感銘されてか、それほど熱心ならば、郷土の後輩としてビハリ・ボースに頼んであげようといわれ、紹介状を書いてくださいました。ビハリ・ボースにとっては、頭山先生は命の恩人。おかげで一も二もなく、調理場に入ることを許可されたのです。

さて、調理場に入ってびっくり仰天。鶏の臓物といっても大腸、小腸が、山のように積んであるのです。そのころの日本では、肝臓とか砂ずりなどはともかく、その他の臓物は捨てていた時代です。それなのに腸の山積みを見せられたものですから、年若い私が肝をつぶすのも無理からぬこと。そこで、いったいこの腸はどうするんですかと尋ねて二度びっくり。この腸が中村屋のカレーの素ということで、腸のミジン切りがカレーのドベリのもとをなしていたのでした。
次にカレー粉が特別辛くて、しかも高尚な風味のあるのは何故かと質問しました。

「ここの店ではカレー粉は一種でなく、印度産のほかにシャム産、.フィリッピン産等々三種類も四種類も混用しています。そのほか、いろいろの香辛料を混合して、このように強い、良い香気と辛味を出しているんです」 ということで、それぞれ実物を見せていただきました。
つまり、カレー煮はスープとカレー粉、その他の香辛料とほどよいドベリに鶏の腸のミジン切りのカレーの素が主で、中の具はたいして大切なものでなく、何はおいても味と辛味、香気に重点を置いて調理すべきものと聞いて大いに啓蒙されました。

(6)中村式カレーライスの考案
中村屋のカレーライスは汁があまりサラサラして澄し汁のようで、これでは日本人の好みにどうかなーと考えました。帝国ホテルのやり方を見学いたしましたところ、ここではドベリを出すのにメリケン粉は使わず、中華料理によく出てくる餡の考えを入れております。すなわち最後に片栗粉の水溶きしたものを流し込んで、艶とドベリを出す方式です。
私がよく言っている中村式(中村屋ではありません)のそれは、以上の中村屋のインデアンカレーライスを基本に、それに帝国ホテル式および私独自の考案を加味して作り上げたものです。
少しくだいていいますと、中村式というのは、中村屋のカレーライス方式を基として、これに玉葱、人参などの野菜の切り屑を鶏の腸にまぜてドベリとし、甘味には砂糖のかわりにトマトケチャップを少々使用したこと。また、ドベリには帝国ホテル式の片栗粉を用いる中華料理餡の考えを入れたことなどであります。

御飯の炊き方も、白米だけにしないで美観を添えるため、グリンピースや小さく細の目に切った人参を入れるなど、見て美しく、食べておいしく、そして栄養の点を考えております。
およそ、料理の研究を志す者は、先輩の人々が研究し遺された美点を謙虚に学びとり、さらにこれに満足しないで自分でもなおそのうえに風味の上から、あるいは栄養の点から、さらに考案を重ねてより以上のものを創作していく心掛けが肝要と思います。
現に、わが中村料理学院で教えていますカレーライスは、印度人ビハリ・ボースの印度式カレーライスを基として、これに工夫、考案を加えて改良し風味の点でも日本人向きに、栄養的にも理想に近づけており、その苦心の結晶をみていただきたいと思います。

2-5 感心した看護婦教育

この横浜在職期間は、未だ年齢も若く、家庭科教育についての研究意欲最も旺盛な時代でした。家庭科の範囲に含まれる分野の研究では、前に述べた料理のみに限らず、被服以外の住居、看護、衛生、育児、家庭経済について東京女高師、目白の日本女子大学校の夏期、冬期講習にはたいてい出席して受講し、先輩の諸先生方の研究の成果を勉強させていただきましたが、これらについては特に記録に残すほどのことはありません。ただ看護、衛生の勉強については、その後の私の教育のあり方に強い影響を与えたようですから、ここで記録に止めておきましよう。

病人の看護法は家庭科の教科の中の一単位をなすのですが、これは高等師範や女子大の講師の先生よりも、むしろ実地に看護婦さんについて勉強した方が良いのではないかと考えました。
そのころは、看護婦さんといえぱ、日本赤十字社の看護婦さんが教育も徹底し訓練も行き届いていると聞いていました。日露戦争後の影響もあってか、女性の一種のあこがれの対象にもなっていたのです。そういう関係で大正十一年八月、横浜市教育課長児崎為槌先生にその趣旨を話し、市教育課から紹介してもらい、二十日間の予定で、東京渋谷にある大日本赤十字病院に見習い看護婦となって入り込みました。

横浜からの通勤で、朝は七時に病院に入り、内科病人の看護の仕方、負傷者の手術のときの看護婦の仕事、縄帯の巻き方、傷の手当、産婦人科の看護の仕方、小児の病人の看護の仕方、しまいには伝染病の看護まで指導を受けることになりました。あまり親切に、これもあれもと仕込まれましたが、さすがに伝染病室だけはこわくなり、こちらからお断りしたいくらいでした。しかし、いったんお願いした以上逃げるわけにもいかず、チブス、赤痢患者の病室まで入り込んでの勉強でした。

伝染病棟に入るときは、あらかじめ、消毒された白衣に着かえたり、その他たいそうなことでしたが、係りの看護婦長さんがチャンと準備してくださっていましたので安心はしました。

この日赤病院で受けた看護法の訓練はその後大いに役立ちましたが、実はそのほかに教育上大いに参考になったことがあるのです。それは看護婦さん方がきわめて(1)礼儀正しく、(2)規律も厳正(3)態度が軍人のようにしっかりしている(4)しかも慈愛深く(5)動作がキビキビしている、ことでした。

服装も上品、軽快で、女性の私どもが見ていても惚れ惚れするいでたちですし、履物も上靴でゾロンコゾロンコでなく、コツコツと威勢よく歩いていました。それを見た私はこれはひとり日赤の看護婦さんに限らず、女子大生や女学校生徒の訓練や服装も、このようにしなければならないのではないかとしみじみ考えさせられました。

2-6 博多弁丸出し

この横浜時代で、私の一番のにが手は言葉づかいでした。なにさま早良郡西新町の生れで、昔から福岡独特の方言やなまりがある。現在のように標準語を使うよう小学校で指導もしていない時代ですから、福岡で三十六年間も育った私が中央に出たからといって、にわかに東京弁が使えるはずもありません。それに自分の生まれた郷土の言葉を簡単に捨てる気にもなれない頑固な私でした。

ところが、私が料理の方は深く研究しているものですから、視学の先生から婦人会への料理講習を仰せつかります。料理はうまいが、さて、言葉の方は「ドウスルケン、コウスルケン」「コウショルバッテンガ」「ナニシガッシャルトナ」「コゲンスルトバイ」「フテーガッテドウジャロカイ」「コゲナヨカコトハホカニナカバイ」云々と博多弁丸出しでやるので、婦人会の方々から「中村先生は料理はうまいが、言葉のわからないところがあって困る」との批判が出てきました。

視学の先生からも「中村さん、言葉を少し東京風に変えてくれんかね一。婦人会員から言葉がよくわからないところがあると、苦情が出ているんだよ」と忠告されました。けれど、とうとうこればかりはなおりませんでした。また、変えようともしなかったのです。
岡野高等小学校の生徒も、中村先生の言葉は鹿児島と同じでどうもよくわからないところがあるとこぼしていましたが、教授法がうまかったので授業は皆喜んで受けておりました。
これでも待遇の方は横浜市小学校女教員中最高級で、東京の木内きょう先生と私の二人が小学校女教員の日本における最高級待遇だったのです。

そのころは全国女教員会という組織ができていまして、毎年一回東京で大会を開催していました。この大会には、全国から研究熱心な優秀な女教員が参加し、それぞれ研究発表を行なったものです。この世話は帝国教育会が担当していましたが、その幹部の野口援太郎先生はよく世話の行き届く方でしたが、同郷の関係もあってかよく私を可愛がられ、いつの間にか私は全国女教員会の幹部級にまつり上げられました。

2-7 悲惨!関東大震災

大正十二年九月一日。その日は朝からサーツと吹き抜けるような風が強く、日中になるにつれて温度も上り、おまけに時たま雨もぱらつく無気味な天候でした。
朝のうちに二学期の始業式はすみ、生徒は全部帰宅しました。そのころ、私は文部省が行なっている中学校家庭科教員の検定試験を受けるため懸命の勉強をしていました。その勉強を、平素は二階の裁縫室でやっていたのですが、この日だけは、どうしたわけか中庭への出口に近い私の担任教室の入口のところに机を置いて始めていました。
お昼ごろだったと思います。雨がパラパラおちてきましたから、小使さんが私のところに来て「先生雨が降りそうになってきましたね。修理に出していた雨傘を、とって来ておきましょうか」と話しかけてきました。私も「それではお願いします…」といって、修理代をあげておこうと左側の本棚の上においていた財布を取ろうとしたときです。

その瞬間、万雷が一時におちたかのようなごう音とともに校舎がゆらゆらっと揺れました。
「先生っ、地震ですぞっ!!早く逃げなさい!!」小使さんはそう叫ぶなり、すっ飛んで行ってしまいました。
私も財布、時計は置いたまま、草履を片足につっかけて、無我夢中で中庭に飛び出しました。
しかし、こんどは地面が上下に動いていて、とても立ってはおれません。すぐ地面に平つくぱいになって見ているうちに、五十間(九十メートル)もある岡野尋常高等小学校の新築本館が、あっというまにべシャンコになってしまいました。

とみるまに、崩れた校舎の西側の端の方から火の手があがりました。そして、炎は折からの風にあおられて見る見るうちになめるような勢いで全体に拡がり始めたのです。「ここにいては危ない」と直感した私は、這うようにして中庭から逃げ出し、便所づたいに校外に走り出ました。

道という道には大きな亀裂が入っていて、危なくて思うように走れません。裂け目に足をとられぬよう気をつかいながら、神奈川県立女子師範学校の松林目がけて急ぎました。
命からがらやっとのことで女子師範学校にたどりついたら、消防隊がやって来て大声でどなりました。
「ここも危いから、向うの山の上にある私立神奈川女学校に避難せよ」
こうなっては指示通り動くのが一番と、皆と一緒に山の上の女学校に落ちのびて、やっと一息つくことができたのです。

人心地ついて横浜市を見下ろすと、家はもちろん川の水まで炎をあげて燃え盛っています。木造の家は全滅状態で、このとき初めて地震の恐ろしさを知りました。
消防隊はいましたけれども、このような大天災になると、自分の家がつぶれるやら家族のことが気にかかるやらで人事どころではなかったのでしょう。思うように消火作業もできなかったようです。
横浜市は一面焦熱地獄に変わっていました。火災も恐ろしかったが、それ以上に恐ろしかったのは人の心でした。よく地獄の様相といいますが、このような混乱が起こりますと、平素は紳士然としていても人間の皮をかぶった動物同然。まるで猛獣の姿になって恥も外聞もなく、食物を盗んだり、倒れた他人の家の中をあさって着物をとったり、金を盗んで知らぬ顔。まったく無警察状態の世の中を現出したのです。それにいろんな流言ひ語も飛びました。

やっとのことで命拾いした私は、山を下りて宿舎に帰って見ますと、崩れてはいますが焼けてはおりません。何とか雨露はしのげそうですが、食べ物がありません。ところが、ここに本当に嬉しいことで救われました。それは、岡野小学校の生徒に、学校の近くのいわゆる貧民街から通っている者がいました。家は貧しく、食うや食わずで、その生徒はもちろん身なりもよくありません。私は宿舎から学校に通勤するのに毎日そこを通っていたものですから、その生徒のお父さんも私のことを知っていたのでしょう。震災直後、私のところに見舞いに来ていってくれました。「中村先生は女の先生のことですから、米をかつぎ出すこともできず、食物がなくて困っておられるでしょう。実は、私たちは役所の指令で国の倉庫に入っていた米だけはとってもよいとのことでしたので、力にまかせてうんと取って来ております。これをひとつ分けてあげましょう」

米の量はわずかでしたが、このような無学の人が日頃の恩に感謝して申し出る行為の美しさ、嬉しさ。それに引きかえ、平素紳士然としていた人のあさましい行為ほどみにくいものはありません。
やがて、地方からの救援物資が送られて来たのか、横浜市役所からの達示に「大阪、神戸からの見舞品として玄米がたくさん届いたから配給します。受取りに来るように」とのこと。食糧不足で空腹に悩んでいた市民が、まさに早天に慈雨を得た思いで喜び勇んだのも当然です。

ところが、白米とは違い玄米飯は、よほど気ながに炊かないと御飯にはなりません。
市の役人方も震災後の世話で、日夜ぶっとおしの活動をしているので、私に「役人方へ玄米飯の炊出しをしてください」との依頼がありました。私も同じ市の教員ですから、断るわけにいかずこれを引受けることにしました。
朝食の準備は午前三時に起きて炊き始め、途中で水を追加すること二ないし三回。時間も二時間ないし三時間かけてゆっくり炊かねば玄米の飯にはなりませんので、ずいぶん苦労しました。

そのころ有名な栄養学者で玄米飯を奨励している方がありましたが、炊き上げる時間と燃料の消費、食べたあとの不消化、おいしくないなどの点から、やはり、米は外皮をはいで七分搗きとか半搗米にするのが理想だと思います。
震災直後といっても、あの恐ろしかった九月一日から数日たって、私は生徒二名をつれて横浜市内を見て歩きました。普通の瓦葺きの木造住宅のほとんどは崩れたり、焼けたりしています。鉄筋コンクリート造りの室町小学校と正金銀行は残っていました。そのほかトタン葺きの家がチラホラと残り、山手の方の家はかなり残っていました。水道は破壊されて水は出ません。井戸の水が唯一の頼りです。

道を歩いていると、そこここに人間の焼けた死骸や、馬や牛の焼死体が転がっていて、とても見るに見かねる悲惨な状態です。とくに目をおおわしめたのは、正金銀行の惨状です。この建物は横浜一の鉄筋の豪華なものでした。従って、ここに避難しておれば大丈夫ということで、男女市民数百人がこの建物に逃げ込んで来たのです。ところが、横浜市全体が火の海になってしまったので、正金の建物は焼けないが、まわりから押しよせて来る熱と炎のために窓硝子がやられて、炎が建物の中にまで吹き込んで来たのです。中に避難していた人はたまりません。逃げ出す場所がなく、全員焼死という事態になってしまったのです。しかも、焼けただれて顔かたちも分別できないほどになっていました。とにかく、市内を歩いて見たり聞いたりするものすべてが「悲惨」の一語に尽きる状況でした。

このような横浜に、九日間頑張っていましたが、学校が始まるわけではなし、私みたいなよそ者は、目的を失ってしまうと心細くなってきます。
そこで、視学の中川先生に頼んで、一応郷里の福岡に帰省させていただくよう願い出ました。
先生も気の毒に思われたのか、市当局に願い出で許可がおりました。

久し振りに故郷に帰る「だから晴着でも着て帰りたい」といったら、中川先生がおっしゃいました。「晴れ着でも着ていたら、それこそ大変だ。この震災で人の心はすさみ、荒れ狂っている。途中で着物をはがされ、殺されるかも知れない。大事をとって寝巻の単衣に草履をはき、頭に手拭いをかぶった乞食や避難民の姿でなくては危ない」
そこで、私の宿舎は崩れはしていても焼けばしませんでしたので荷物を整理して中川先生の家にあずけ、私は先生から教えられたとおり乞食姿になって、天井のない貨車に乗り込んで横浜駅を発ちました。

途中、名古屋駅で避難民として握り飯や茶菓などの接待を受けました。大阪、神戸、岡山、広島と汽車が駅にとまるごとに、握り飯や衣類の寄贈を受け、同胞の温かい厚情に感激しながら、まる二昼夜かかって、やっとなつかしい博多駅につきました。

2-8 ”亡霊”故郷に帰る

横浜で九日間、風呂にも入らず、顔もろくに洗っていないうえに、無蓋貨車で二日間さらされてきたのです。おまけに、寝巻きに草履のいでたち。頭には手拭いをかぶっているのですから、誰が誰やら見わけがっかないのもあたり前です。駅のホームには婦人会の方々がたくさん出ておられて、佐賀や熊本方面に帰省する罹災者にいろいろと接待されています。ホームに降り立った私は婦人会の方々に「ただいま、横浜から帰りました」とあいさつしたのですが、一向取り合う風もなく、ただ「ああ一、そうな」だけ。
他県の人々には忙しそうに接待しているのに、全滅といわれた横浜から辛くも避難して来た私には「ああ一、そうな」だけとは情けないと腹が立ちました。けれど、我が家に帰れば手厚くしてくれるであろうと思い直して、ホームを通って改札の方に出たとたん、新聞社の記者の皆さんに見つけられました。

新聞記者はさすがに勘がよいのです。やつれた乞食姿の私が中村ハルと知って、五、六社の新聞記者が私をとり巻いて質問攻め。

「中村先生、ようこそ無事で帰って来られましたなー。横浜市は全滅と電報が入ったまま一人も帰って来る人もないので、やはり福岡県人は全滅かな一とあきらめていたんです。よかった、よかった」
それから根ほり葉ほり、福岡県出身の人々の消息をきかれます。

「中川直亮先生は?児崎為槌先生は?久芳龍造先生は・・・その他あれこれ」
「いま、おっしゃられた方は、だいたい命だけは助かっておられます。私だけ一足先に帰って来ました」
そして、私は横浜市で見たり聞いたりした震災の模様を逐一話ししてあげました。

「川に流れ込んだ石油に火がつき、川まで三日三晩燃え続けていました」
「瓦葺きの家は一ぺんでペシャンコになりましたが、トタン葺きの家はチラホラ残り、山手の方の家はだいたい残っているようです」

惨たんたる横浜の様子を説明したものですから、新聞社としては横浜の状況がよくわかったと大喜び。早速、翌朝の各新聞に

三日三晩川の水まで燃え続けた横浜市
中村ハル女史の帰省談

と発表したものです。
やっと新聞記者から解放されて我が家(といっても、父は大正十一年九月に病没していたので姉の保坂の家)にたどり着いたのが夕方のことです。「姉さん。私、今帰って来ましたよ」と声をかけると、じっと見ていた姉が裏口の方に逃げ出します。私の亡霊とでも思ったのでしょう。
私は姉を追いかけてなんども繰り返さなければなりませんでした。

「ちがう、ちがう。私は亡霊ではありません。ハルですよ。生きて帰って来たんですよ」 姉はまたじっと私の顔をしばらく見ていましたが、やっと本物とわかって「ハルしゃんな!!あんたは生きとったとな」というぐあいです。そしてつけ加えていうのです。

「今度の震災で横浜は全滅と新聞で知って心配になり、実は易者のところに行って占ないを立てたら、一人の易者は死んだといい、もう一人の易者は助かっているというもん。その後、何の音沙汰もなかけん、矢張り駄目だったかと諦めとったとこよ。ハルしゃんな可哀想なことをしたと悲しんどるとこに、姿を現わしたもんで、てっきり、これは亡霊が姿を見せたものと早合点した。すまんやった、すまんやった。それにしても、その格好じゃ思い違いするよ。まあ、何はともあれ座敷に上がってゆっくりしなさい」

それから、姉が喜んで、家中大騒ぎになりました。それというのも、私どもの実母は姉が十四歳、私が八歳のとき亡くなり、父も前年に亡くなっていました。

母亡きあとは姉が母代りとなり、姉が保坂家に嫁いでからも、何やかやと私の面倒を見てくれてきたのです。姉にしてみれば、一時は諦めていた妹がヒョッコリ現われたのですから、その喜びは大変なものだったと思います。早速、風呂を沸かして十二日間の垢を落しなさいと、姉自らが私の身体を洗ってくれました。

久し振りに風呂に入って垢をおとし、人心地ついた気持ちになりました。その晩は家族一同揃って、無事を喜ぶやら、震災の恐ろしい話をして時の経つのも忘れるくらいでした。寝に就くのが遅かったのと、旅の疲れ、横浜の苦労が一度に出て、翌朝はどうしても頭があがりません。午前八時ごろまでぐうぐう寝込んでしまいました。

ところが、姉が私をゆり起こして「お客様ですよ」とのこと。目はさましましたが、頭はあがらないので、布団の中から「お客様とは誰ですか」と聞いてみますと「いま、福岡市の婦人会の幹部の方々が二、三人みえているんですよ」という。
私は婦人会と聞いて、実はあまりよい気持ちはしない。昨日のあの駅のホームの冷淡な扱い方が頭に残っていて、むしょうに腹が立っていたからです。

私のみじめな姿を見て、暖かい取り扱いをしない婦人会。第一、避難民だから、そんなきれいな格好の出来ないことくらいはわかりそうなものをと思っていたから、気がすすみませんでした。しぶしぶ起きて、お会いしました。
「昨日はどうも失礼いたしてすみませんでした。中村先生がまさかお帰りとは夢にも知らず、誰だろうかくらいに扱ってすみません。そこで今一度御迎えをやり直しますので、面倒でも博多駅に戻っていただきたい」と、幹部の方が懇願されるのです。

何と馬鹿々々しいことをいい出したのだろう。福岡市の婦人会は、何と田舎くさいことをするのだろう。自分はいま、横浜で女教員の上席に位しているだけのものにすぎないのにと思っていましたが、姉がしきりに「ああまでいっておられるのですから、婦人会の方々の気のすむようにしてあげなさい」といいますので、仕方なく博多駅まで出向きました。そして、おかしくはありましたが、出迎えのやり直しをしていただきました。

聞くところによると、その日朝の新聞を見て、昨日の乞食姿が「さては中村先生」と気づいて、この騒ぎになったそうです。それにしても、考えてみるとまあ親切なことではあります。
さて、いったん郷里に帰って来たものの、丸焼けになった学校の跡始末や、生徒の授業などが気になり始めました。そこで、横浜が落付き次第、また学校に戻って、今後の計画を立てなくてはならないな一と思っているところに、横浜市役所の方から小学校児童の教科書を古本でよいから福岡県の方で、できるだけたくさん蒐集して、横浜の方に帰って来るようにとの連絡に接しました。私も、これは最も大事な仕事だと考え、すぐ福岡市役所を訪れ、市内各小学校で各学年にわたって教科書の古本を集め、横浜に送ってくださるようお願いしました。市教育課も喜んでこのことを引き受けると、約束されました。

続いて、八幡市役所、小倉市役所、門司市役所、それから久留米、大牟田市役所まで足をのばし、横浜市の尋常小学校、高等小学校あてに教科書の古本を多数御寄付くださいますよう、お願いして回った結果、予想以上の教科書が集まり、これを一纏めにして貨車で横浜に送りました。これらの教科書は全部、福岡県から横浜市への寄付として扱われました。
各市訪問の旅費などは、ちょうど私が手許に持っていた現金七十円ばかりが役に立ちました。 教科書集めの仕事が終るとともに、私はまた横浜の岡野高等小学校に帰任しましたが、そのころはまだ余震がときどきあり、東京、横浜はこわい都市だな一と思ったものです。

2-9 生命を守ってくれた弟の霊魂

関東大震災を体験して、いやというほど震災の恐ろしさを痛感いたしました。それと同時に、人間の運命の玄妙さと申しましょうか、因果応報とか、われわれがいっているが、これも実感として味わいました。端的にいえば、霊魂の不滅を信じるようになったのです。

考えれば考えるほど、この大震災で私が命拾いしたことが不思議でならないのです。
前にも述べましたように、私はこの年の夏休みを文部省が行なう教員検定試験を受けるための勉強にあて、それまではいつも二階の裁縫室に閉じこもって勉強していました。この九月一日は始業式がすんで生徒は皆帰り、学校に残っていたのは私と若い男子の先生方四、五人、そして小使いさんだけです。先生方は職員室で碁を打っておられました。私だけはいつもの通り二階の裁縫室に行って勉強を始めたのですが、暑くて暑くてしょうがないものですから、参考書を引っさげて一階の自分の担任の教室に移動しました。しかも、暑い暑いといって教室の入口に机を動かし、片足は廊下に突き出して勉強を始めたのです。そのうち、小使いさんがやつて来て、修理に出した雨傘のことをたのんでいるときにあのゆらゆらです。小使いさんの「先生地震ですぞっ”早く逃げなさい“」の叫びに、無我夢中で中庭に飛び出して腹這いになって見ているうちに、校舎はペシャンコに倒れてしまいました。この間、一分間くらいたっていたでしょうか。間もなく倒れた校舎の一隅から火が出て、あたり一面またたく間に火の海に包まれてしまったのでした。私は辛うじて山の手に逃げのびて命を全うしましたが、職員室に残っておられた四、五人の男子の先生方は行方不明と発表されました。おしい青年教師の方たちでしたが・・・・・・。

それにしても、その曰いつものように二階の裁縫室で勉強していたら、とても逃げ出すひまもなく、あわれ校舎の下敷となり・・・・・・・・・と想像し、その日に限って一階のしかも中庭にすぐ飛び出せる所に移動していたことが、私の運命の岐れ目になったと考えるとき、何かそこに人間わざでなく神仏の加護を信ぜざるを得ません。
そこで思い当たるのは、弟関次郎が沖縄の地で死期をさとり、私に送った手紙のことであります。

「病床について十数年のながい間、母代りとして姉さんに本当にお世話になりました。この大恩は、たとえ死んでも忘れることはできません。不幸にじて、私は先立つことになりますが、霊魂不滅を信じています。私の霊魂は必ず残って、姉さんの生涯を守り抜き、せめてもの御恩報じをいたします」
人は、あるいは、それは迷信だとか、自分の勝手なひとりよがりだとか申すか知れませんが、私にとっては、正真弟の霊魂の加護としか考えられません。

それ以来、今日まで、何か事あるごとに、常に弟の霊魂が私を見守っていてくれているのだな一という信念を強く持たされること再々であります。今日、私がかくあるのは、私自身平素誠実にコツコツと努力を重ねた結果と、それにもまして、数多くの方々の善意による引立てと御協力の賜物であることは常々肝に銘じておりますが、それ以外にもう一つ何か事が難かしくなって、にっちもさっちも行かなくなるような難局に会うと、不思議と自然に運が拓けて来て、物事が順調に運びはじめる人間以上の何等かの力添えがあるのではないかと痛感されてなりません。このようなときいつも弟関次郎が言い遺した言葉の真実を忘れることができないのです。