学校法人中村学園

学園祖 中村ハル先生の想いと記録

学園祖 中村ハル自伝
努力の上に花が咲く

第4部 
教育の花ひらく

4-1 九州高女を去る

昭和二十三年の寒中バザーの一件以来、私としては何となく九州高女に対する愛着が薄れてきました。それ以前から釜瀬富太校長先生に対し一部教員の排斥の動きがあっていた様子で、どうも学校内の空気が従前のように一致協力というわけにいかなくなってきていました。

私としては、教師というものはただひたすら生徒に対する愛の教育を実践しておけばよいとの信念ですから、これらの動きに加担することもしないし、その必要もありませんでした。このような態度が反発を招いたのか、今度は私に対して追い出し工作が始まりました。こうなると、私もいつまでも九州高女に便々と勤める気はありません。もともと安河内校長一代限りで暇をもらう決心をしていたくらいですから。

昭和二十三年十月初旬退職願いを出して一時、養子久雄君が勤務している宮崎県の塚原(上推葉の下流。久雄君はそのころ日本発送電の水力発電所技師)に落ち着き、静養かたがた将来の方針を考えることにしました。ひとつには福岡に居ると教え子や卒業生が押しかけて来て、もう一度教壇に帰れとせがまれ、学校との間にいやな抗争が起きるのを避ける気持ちからでもありました。

昭和五年四月以来十八年有余、苦労を共にした九州高女とも訣別したのであります。六十四歳(数え年)の秋のことです。

4-2 中村割烹女学院創立

宮崎県の山奥でゆっくり静養しながら、いろいろと将来の構想を練ってみました。このころは敗戦直後で食糧には最も不自由していた時代です。「この少ない食糧をうまく使いこなして、おいしく、しかも栄養のある料理を作り得る婦人は非常に少ない。私は幸い健康には恵まれている。自分が教育者として最後の働きを全うするには、横浜時代、神戸時代、九州高女時代を通じて三十年間にわたる料理研究の成果を生かすべきである」と思い至りました。息子夫婦に相談すると大賛成でした。それでは、ここでもう一ふんばりしょうと宮崎を引き上げて福岡に帰って来たのです。

さっそく校舎を何とかせねばと、そのころ福岡市議会議員をしていた異母弟の中村七平氏に頼んで、やっと唐人町公会堂を借用することが決まりました。昭和二十四年新春早々のことで県の方に中村割烹女学院設置認可申請を出して無事認可になり、その年の四月から開校したのです。これが、私学経営に乗り出した第一歩になったわけであります。

このときの陣容は、私が院長、事務会計には師範学校の後輩末松みさをさん(現中村学園女子高校長末松先生のお母さん)、助手には九州高女時代の教え子山崎さんと島村さんとの二人、というほそぼそとしたものでスタートしました。
しかし、私が料理学校を開いたと聞いての応援者は多く、これも師範時代の後輩の原小学校教頭の郡司先生や、馬出小学校教頭の大野先生などは開校の宣伝ピラを配布するのに大活躍をなさるなど、師範同窓生の方々のこのときの応援は私として一生忘れられないことであります。

このころ、市内には江上トミ先生が料理学院を平尾の方に開いておられたくらいで、ほかにはなかったと思います。中村割烹女学院の看板をかけていよいよ先徒募集を始めますと、入学者が何と四百五十名も集まる大盛況です。小学校の先生方や有名な御婦人方も多数おられました。

本格的な料理学校としては市内唯一といわれたかも知れませんが、現在のように至れりつくせりとはいえません。しかし、実習の調理台だけは十二台私の設計になるものを揃え、当時としてはまずまずの出発だったのです。とくに、物資の少ない昭和二十四年ごろでしたから。とにかくスタート早々四百五十人もの入学者がありましたから私も意気盛んで、料理の指導にも熱が入るし、生徒さん(といっても上は五十歳ぐらいから下は十七、八歳まで)も熱心なものでした。

4-3 うれしかった姉の心づかい

この中村割烹女学院を創設するときに、私の姉保坂タミの陰ながらの応援を記録に残しておきたいと思います。
九州高女から頂いた退職金八万円はいつの間にか創立の費用に飛んでしまい、調理台やいろんな器具の購入資金がありません。そこで五十万円を福岡無尽(のちの福岡相互銀行)から借りるようにしたのですが、どうしても担保がいるとのこと。もともと金とか財産に余り関心のない私には不動産などあるはずもありません。この担保のことを末松みさを先生に話したら、それは保坂の姉さんに頼まれたらどうでしょうとのこと。さっそく姉に相談したところ「まかせときなさい」と、こころよく引受けてくれました。間もなく、銀行から五十万円の金が出ました。いろいろの支払いをすませ、私はそのまま、五十万円の金がどんないきさつで借りられたか、気にも掛けず忘れてしまっていました。

後日といっても数年経ってからそのときの真相を知り、感謝の念で頭が下がった次第であります。その裏話とは・・・・・・・・・

保坂の姉があのとき「まかせときなさい」と大見得を切ったあとが大変だったそうです。まず主人保坂国吉名儀の家屋敷の権利証書と実印をこっそり持ち出し、銀行の係員を呼んで借用証書その他の手続きをすませたのですが、これはあくまで主人や家の者には内緒ですから近所の家の座敷を借りての作業です。ついで銀行員が担保物件の評価に来ましたが、これも家のまわりをうろうろされてはバレてしまいそうなのでなるべく遠くの方からそれとなく調べてもらうなど、随分神経を使ったようです。

このことは、割烹女学院が繁盛してもうこれならば大丈夫というころになって主人にもわかり、笑い話になったそうですが、創設のころは海のものとも山のものともつかない試みであるだけに、随分思い切った冒険だったわけです。
笑い話ですまされるようになって、姉に「よくまあ、思い切って助けてもらったが、そのときの気持は?」と聞きますと、姉は「あたきはこの料理学校はあたると思うとった。日本人がみんなひもじい思いをしとる時じゃけん、食べ物の仕事はこれはよい思い付きばい。それにハルしゃんのことじゃけん、必ず成功すると信じとった。ひょっとうまくいかんときは死んで、主人や家の者にはお詫びするつもりじゃった」と、カラカラと笑いとばしてしまいました。
苦労して育った姉は、洞察力の鋭い腹の大きい女性だったのです。まったく頭が上がりません。

次ぎにこんな笑い話もあります。
学校の方も万事好都合に運んでいたある日、突然税務署の方が来られて帳簿を見せてくれとのことです。私は教えることで頭が一杯で、税務署のことなど考えたこともありません。第一、学校は税金がかからないぐらいにしか考えていない世間知らずでした。事務会計の末松さんも福岡市の優秀な女教員だったのですが、その方はとんと無知。こんなのが二人揃っているものですから、帳簿はなっておりません。金銭出納は書き込んではあるのですが、まるでメモ帳です。随分長いこと帳簿を調べていた税務署の方も、しまいにはついに怒り出して「これは何が何かさっぱりわからん。見込みで税金をかけますよ」といって帰ってしまわれました。

こちらも経営状態がどうなっているのかよくわからないで、とにかく支払いだけはきちんとやっているし、銀行にも不都合なく返しているから、それでいいんだくらいの考え。教える方は専門ですが、経理や財政のことになるとまったく弱かったのです。後日、税務署から税金納付書を送ってきたのを見ると、ちょうどいいくらいに掛けてあったようでした。
このころの生徒さんは多種多様で、割合に年配の人が多く、生徒さんの中から世話人が出て忘年会とか謝恩会とかよく世話が行き届き、非常に楽しい思い出になっています。

開校二年目にはいよいよ入学者もふえて、一挙に七百五十人近くも入る盛況ぶりです。
こうなると唐人町公会堂では手狭になってきました。そこで、会計の末松さん、姉の保坂や異母弟の中村七平氏と相談のうえ、校舎を新築することにいたしました。
土地は地行西町の菊池さん所有のもの二百二十坪を五十五万円で譲ってもらい、校舎百五十坪約三百万円は勝呂組の請負で工事、昭和二十六年夏に完成したのです。
同年九月から唐人町公会堂を引き払い、この新築校舎で授業を開始しました。このときも福岡無尽から三百万円借用しております。

4-4 発展する割烹学院

この地行西町二二番地の新校舎は、当時としてはモダンな建物で、アメリカ進駐軍人が日本にも料理学校のしゃれたのができたと写真に撮ってアメリカの郷里に送ったところ、アメリカの新聞にもわが中村割烹女学院が紹介されたと聞いております。

アメリカ進駐軍といえば、こんな話があります。
あるとき、通りがかりのアメリカ進駐軍人が数人つかっつかっと学校の中に入って来ました。彼らにしてみれば、日本のきれいなお嬢さん方がたくさん集まってガヤガヤいっているのが外から見えるものですから、何事ならんと入って来たものと思われます。
ただ見学するだけならよかったのですが、美しい日本料理特にはなやかな鮨料理を見ると、たまりかねてか無断で手にとってムシャムシャ食べ始めたのだそうです。生徒さんは悲鳴をあげて院長の私のもとに、何とかしてくださいと訴えて来ました。

私も進駐軍のことではあるし、無作法と叱るわけにもいかず、致し方ないので、別室につれて行きました。

「この学校は、結婚前の若いお嬢さん方や家の主婦の方々が戦後の日本の食生活をいろいろと研究するため、授業料や材料代を乏しい家計の中から出して皆勉強に来ていられるのです。できあがった御馳走は自分で試食して味のぐあいを調べたり、家に持って帰って家族の者に食べさせる大切なものです。だから、みだりにつまみ食いされては生徒が困ります。見るだけにしてください」と頼んだあと、彼らに聞きました。

「ところで皆さんはおすしが好きですか」
「日本の鮨、大好き」
「それでは、明日私が腕によりをかけて美しい、おいしいお鮨をいろいろ作ってあげますから、また学院においでなさい」

と申しますと、みんな喜んで「では、また来ます」といって帰りました。
ああいって帰ったものの、はたして来られるかなと半信半疑で、握り鮨、二重巻鮨、箱鮨を作り、鉢盛りにして待っていると、昨日の顔ぶれ以外の人までつれて愛敬をふりまきながら彼らはやって来ました。私もつられてうれしくなり、いろいろ親切にもてなしていますと、一人の軍人が「僕の国もとにも、あなたのような年ごろの母が待っている。子供も二人いる。近い中に引き上げて本国に帰ることになっているから、今日のお礼にアメリカの料理の雑誌や調味料をお送りしましよう」と、まるで友だち同志のような雰囲気になってしまい、鮨をみんな食べつくして賑やかに帰って行きました。

その後このことは忘れるともなく忘れていたのに、しばらくしてアメリカから荷造り一個がひょっこり到着、そのころ日本では珍らしい洋胡傲、パプリカ、ニッケイ類が詰めこんであります。わずか鮨ぐらいのことでこんなに丁寧にされて恐れ入るとともに、アメリカ人のおおらかさ、信義の厚さに感心しました。
このころの割烹女学院の生徒数は、本科、研究科合わせて一千名を突破する盛況で、院長の私がほとんど一人で、昼、夜二回に分けて料理の示範、指導を行ない、これに助手六名、事務会計は末松さんほか一名、用務員二名の陣容でした。いかによく頑張っていたか、想像がつくと思います。

このころから少し年代は遅れますが、昭和三十年三月二十日中村割烹女学院の卒業式における私の式辞がありますので、ここに再録いたします。私の料理学校経営の考え方や当時の日本の状況など思い起こすのに参考になれば幸いです。

中村割烹女学院第六回卒業式式辞

春雨そぼ降る静かな日に本学院第六回卒業式を挙行いたしますに当たり、我らの杉本県知事殿を始め多数来賓各位の御臨席を恭うし、かくも盛大に式をあげ得ますことは、まことに歓喜に堪えない次第でございます。

思うに、我国が終戦後新たに独立国家として国際社会に伍するに至ってより最早や三周年の春を迎えましたが、国内の経済状態は相変らず不振の一途をたどり、従来五大強国の一つとして誇りを持ち八紘一宇を夢想していた大和魂はどこへやら影をひそめ、自主自立の経済に乏しい我国では未だに外国依存の、見るに忍びないものがあります。ところで国家の素因をなすものは一家庭なのでありますから、家の消費経済のやりくりを背負う私ども女性は、直接間接に国の経済の不振についての責を負わねばならぬと痛感いたします。

特に昨今の如く、社会情勢が不景気のどん底に落ち、切りつめた生活態勢をとらねばならぬ際には、一家の主婦は衣、食、住のうち特に食生活に万全の注意を払い、新鮮で栄養豊富な食品を獲得するためには、生産の労も敢て惜しまないという立場で野菜も栽培しなければなりません。また最も廉価で買い入れる工夫も必要であります。そして、最少限度の食品を使って最大限度の栄養価値を発揮するよう、献立、調理に細心の考慮を払うのはもちろん、燃料の節約や一切の無駄を排除して、いつも愛と誠意のこもった保健食を与え、和気あいあい、身体的にも、経済的にも、健全なる家庭の育成に遭進ずることが女性の本分だと考えます。

本日、御卒業の皆様は数多くの女性の方々に先駆して本学院に御入学になり、清節の徳を研ぎつつ、この食生活の研鎌に一年一日の如く精進されましたことは、指導者と致しまして感激のほかございません。
とくに若い奥様のなかには、赤ちゃんを背負い、あるいは一人、二人と幼な子の手を引いて、一日も欠かさずつとめられた方さえおられます。

かくて今日の晴れの式場に於て、皆勤賞を授けられるお方が二〇四名、その他精勤賞、努力賞、早納賞、模範賞等を授けられるお方、受賞者総数七〇五名、賞品が御覧の通り山と積まれているのを見ても、皆様がいかに真面目に、真剣に努力されたかということがうなずかれるのであります。

さて、本学院の姉妹校として建設いたしました福岡高等栄養学校は、新学年度の入学志願者が、その数に於ても、その優秀さに於ても、開校当初の昨年に比し倍加いたしています。近き将来には栄養短期大学への昇格も計画している関係上、教師の陣容も九州大学、学芸大学その他各種専門の大家をもって組織されております。本学院卒業生三千名に対しては長期休暇を利用して再教育講習会を催し、日進月歩の文化の進展に遅れないよう指導をつづけたいと考えます。皆様も学校の意のあるところを諒とせられ、振るって御参加下され、健全家庭建設のため御奮闘あらんことを希望いたします。以上を以て、式辞といたします。

昭和三十年三月二十日
中村割烹女学院長 中村ハル

4-5 学校法人中村学園の設立

福岡県に各種学校連合会というものがありまして、わが中村割烹女学院もその会に加盟していました。昭和二十七、八年ごろの会長は高山平一先生で、非常に世話の行き届く方でした。
私立学校経営についてまったく素人といってよい私どもは、何かというと高山先生の意見を聞いたり、親切に指導を仰いだりしたものです。
この方があるとき、全国各種学校連合会長の牛窪先生・事務局長の渡辺先生と一緒に学校に来られました。

「中村さんはながいこと料理とか、栄養とかを研究されていると聞いています。この料理学校も非常に盛況で、頼もしい限りです。ここで一つ栄養学校をつくって栄養士の養成に当たったらどうですか。いま九州には栄養士の養成校は三、四校しかなく、とても足りないのです。幸い、料理学校はすでにあるのだし、前の空地(地行西町の割烹女学院の道を狭んで東側に二〇〇坪程度の空地がそのころありました)を買い足して、普通教室を二、三作ればいいんですから」

と、すすめられます。私も大いに心動かされるものがありました。といいますのも、栄養のことは永年勉強してきたことでもあるし、また料理の指導をするにしてももう一段深いところの栄養の分野にまで入らないと、駄目だというのが従来からの私の主義だったからでもあります。

それにもう一つ大きな動機となったものは、この地行西町の中村割烹女学院の横を日系米人の軍人がよく通っていまして、その体格の素晴らしいことに驚かされました。これは遺伝とか、体質とかではなく、やはり栄養が一番大きな原因ではなかろうか、今後は栄養のことを考えなくてはいけないと思い至ったからでもあります。
さっそく関係者にいろいろ指導を仰いで、前の空地に校舎を建て、その程度でよいものかどうか設計までいたしましたが、とてもそんな簡単なことでは栄養学校にはなりません。

それでは新しく土地を物色しようということになり、藤永さん所有の市内上中浜町一丁目、田、七二七坪を坪当り四千円で譲ってもらうことになりました。これが、その後の栄養短大であり、現在中村学園女子高校の水仙寮になっているところであります。
このころ、県からいろいろ指導を受けましたが、そのとき栄養士の資格を与えるような、社会的に見てきわめて公共性の強い栄養学校のような学校の経営は、学校法人で行なうべきであるとの結論に達し、ここに初めて学校法人設立の準備にとりかかったのであります。

当初の理事の顔ぶれは、次の通りでした。

理事長 中村ハル
理事 広畑竜造(当時九大医学部生化学教室主任教授)
   森田武雄(味の素株式会社福岡支店長)
   郡司秋生(女)(原小学校を教頭で退職され、その後福岡高等栄養学校総務課長に就任)
   中村久雄(私の養子で当時九州電力技師)

こうして昭和二十八年十二月、福岡県知事より学校法人中村学園設立および福岡高等栄養学校の設置認可が下りたのであります。

さっそく第一回目の生徒募集にかかったところ、やはり社会的要求も強かったとみえ、定員百名のところに百五十数名の応募者があり、そのうちから百十名余に入学を許可しました。このころの入学生は現在と違い、高校卒ばかりではなく、旧制中学卒もかなり居て、年もまちまちで実に多種多様でした。この第一回卒業生のなかから現在料理学院副院長の中村シズ子や短大の江上一子先生、その他そうそうたる人材が多数出ているのであります。 学校の方はなかなか好調なスタートでしたが、資金の方はとても苦しく、中村割烹女学院の私の手もとから常時応援しなければ給料も払えない状態です。これが積もり積もって一千万円になりましたので、これは寄付することにしました。

この福岡高等栄養学校は昭和二十九年四月開校したのですが、最初から私の持論である制服を制定しております。
授業の方は広畑先生の御世話で九州大学から栄養学、食品学、公衆衛生学のそれぞれベテランが担当され、私も校長をしながら調理実習を自ら担当し、生徒の訓練に当たったものです。
中村割烹女学院の方と福岡高等栄養学校の方と両方掛け持ちでしたから、なかなか忙しい毎日でした。
この学校法人中村学園の設立と福岡高等栄養学校の開校を祝して、昭和二十九年五月十七日記念式典を催しました。これがその後、中村学園の創立記念日になったのであります。

4-6 待望の栄養短大

さて、この福岡高等栄養学校を経営し、また校長として実際教育に当って生徒をみると、何となく品性に劣るところがあります。やはり職業教育だけにかたよっては駄目です。一般教育も取り入れた総合教育を施さねばいけないと、ひしひしと感じました。生徒の方も同じ二年間勉強するのだったら、短期大学に昇格できるようにして下さいと強く希望してきます。

私もすでに栄養学校があるのだから、これを短期大学に昇格するくらいのことは簡単なことだろうぐらいに考えて、申請書の作製を郡司先生にお願いして細かく研究はしませんでした。
ただ一度、昭和三十一年の六月ごろ文部省に行き係官にお会いして、実はこういう事情で短大をつくりたいと思いますのでよろしくお願いしますと、事前あいさつに行っただけ。しかも、そのとき係官の方も軽く考えられてか「よろしうございます。しっかりやんなさい」と激励されるものですから、こちらは社交辞令とは露知らずもう認可されたような気持ちになっていました。

ただこのときわかったのは、校舎は福岡高等栄養学校のままでは不足で、相当これに継ぎ足し増築せねばならないことだけでした。

いよいよ九月下旬になり、書類もできたというので上京することにしました。書類の表紙には、福岡高等栄養学校を短期大学に昇格するのですから「中村栄養短期大学昇格認可申請書」と大威張りで書きました。
文部省のこのような大学や短大の新設の場合の書類の提出締切は九月三十日までと聞いていましたので、たしかその三、四日前と記憶いたしますが、文部省の技術教育課に伺い、村越係長に書類を提出しました。ところが、村越係長は書類を見るか見ないうちに、ひどくおこりはじめられたのです。

「この書類は何ですか。いやしくも短大一校つくろうというのに、こんなお粗末な書類では内容を見なくともわかっています。第一、すでに表紙の申請が違っているではないですか。あなた方は昇格と普通に思っているかも知れないが、文部省の方からいえば、今の栄養学校を廃止してその校地、校舎を活用して短期大学を新しくつくる解釈になるのですから、あくまで中村栄養短期大学設置認可申請になるのです。もう少し、ものの分かった事務官を入れてきちんとなさい。とにかくこの書類は受取るわけには参りません。持って帰って下さい」

私も簡単に考えていたものですから、まさにこのお小言は青天のへきれきです。しかし、この場は何とかつくろわねばなりません。「本当にすまんことをしました。素人ばかりでやっているものですから。まだ締切りまで三、四日ありますので、先生の御指導を受けて書類を作り直し、持って参りますからよろしく御願いします」
と、平身低頭で引き下がりました。

さあ、それからが大変です。旅館に帰り、かねて懇意にしている楢橋渡代議士に相談いたしますと、それは僕の秘書がその方の知識は持っているからそれに加勢させようとのこと。地獄で仏とはこのことです。文部省の指導を仰ぎながら、どうやら受理できる体裁の書類に作り直し九月三十日提出、一応申請受付けだけは完了しました。そのとき文部省の係官が言われるには「これからがほんものですよ。今日のところは書類上のことだけですが、これからは書類の内容と実際との審査を行なっていきます。教員の資格審査でまた内容が変るかも知れません。そのときは書類の一部差し替えは構いません。十月一杯によく検討されて、もし差し替えがあれば十月三十一日までは構いません。今まで短大の認可になったところでは、事務員の一、二名倒れるのは珍しくありません。それほど認可はむずかしいんですよ」
と、親切に注意して下さいました。

4-7 飛行機の中で申請書の糊を乾かす

近ごろは、短大や大学の新設の申請も数多くて文部省の指導も形式的になっているようですが、昭和三十一年ごろはせいぜい全国で短大新設七、八校程度で行き届いたものでもあり、時間的にもその点ゆっくりしていたような気がします。
私は帰りの汽車の中で、これはとんでもない難事業に手をつけたものだ、しかし絶対成功せねばおかぬと決心したものです。

さて、福岡に帰って来てこのような短大新設に深い知識と経験を持った人がいるだろうかといろいろと考えをめぐらしているとき、ふと霊感のようにひらめいたのは福岡大学の河原由郎先生(現福岡大学長)のことであります。
福岡大学には、かつて私が九州高女時代仕えていた安河内校長のお嬢さんの婿で、教授をされている河原先生がいられる。福岡大学は近ごろめきめき発展しているので、このようなことに詳しいのではなかろうか。

そこでさっそく連絡をとり相談しましたところ、御加勢するのは当然ですが、私だけでは本務があって、しょっちゅうというわけに参りませんから、私が昔から知っている桜井匡先生も加えて下さいとのこと。よかろうということで、私と河原先生と桜井先生と三人で話し合い、この際専門の事務員を置くことにし、これにはちょうど桜井先生の息子さん敬君がよいということになりました。しかし、経営のことや資金面のこと、建築のことについては内輪の者でないとわからないということで、この方面のことは養子の久雄君が九州電力大分支店の係長をしているが、時々福岡に帰って来て手伝ってもらえばよろしかろうということになりました。

格式ばったものではありませんが、世間流にいえば設立準備委員は私と河原先生、それに桜井先生と桜井敬君、養子の久雄君で構成し、これに福大から課長さん一人にときどき加勢してもらうという構成です。河原先生や福大の事務の方は、昼間は本務の都合で動けませんので、打ち合わせはもっぱら夜間になり、ときには随分遅くまで御迷惑をかけたものです。この準備委員会の事務所を、地行西町の中村割烹女学院の二階におきました。

これが十月初旬のことでした。これから本格的な短大づくりの業務が開始されたといってよいでしょう。九月三十日に何とか文部省に受理してもらった申請書の内容を再検討してみるととても短大の認可どころではないこともはっきりしました。それでは根本的にやり直そうと、教員組織の折衝は桜井先生に担当願い、校地、校舎の増設の方と経営の方は久雄君の担当。逐次計画が具体化して行くのと並行して、認可申請書も整備されて行きました。こうしてこれならばまず大丈夫だろうと思われる申請書が完成したのが十月三十一日です。製本して糊の乾く時間もなく、私と久雄君と桜井敬氏の三人が飛行機に飛び乗り、飛行機の中で糊を乾かして文部省に届けたときはホッといたしました。当時は、今のようにジェット機ではなく、飛行機が遅れはしないかとハラハラしたものです。

当日は、書類を以前提出したものとの差し替えだけにし、さて翌十一月一日文部省に出頭し技術教育課の係官に内容を点検してもらいましたところ、これならどうやら脈がありそうだとの批評でした。
その後審議会にかかり、また実地審査も受けいくらか内容の変更もありましたが、結局は認可になったのであります。

ときに昭和三十二年三月十五日のことでした。ここに中村栄養短期大学の誕生をみたわけで、これが現在の中村学園短期大学食物栄養科の前身なのであります。
このとき私は、大学設置審議会、資格審査委員会で調理理論、調理技術教授「可」の判定を受けております。過去の私の経歴や努力が認められたのでしょうか。
この短大の設置認可については、まったく苦労の連続でしたが、昭和三十二年四月開学後は入学志願者も多く順調な歩みを続けてきました。

これも学内諸設備は小規模ながらもキチンと整えましたし、教員組織も九大、福大の御協力を仰ぎ、優秀な先生方が揃われたこと、また後援会の御援助それに学生が私の教育精神をよく理解して独特な中村栄養短期大学の校風を育ててくれて社会のよき評価を得たことによるとありがたく思う次第であります。
昭和三十二年十一月一日に短大の開学式典と校舎の落成式を挙行しました。そのときの私の式辞の原稿を再録しておきます。

中村栄養短期大学開学式ならびに学舎落成式式辞

新興日本の隆盛を計るには何はさておき、国民の健全な身体、健全な精神に侯つところ大であります。而して、その健康の増進を図る方途は種々ありますが、日常の栄養食問題と公衆衛生のこの二問題はその中核をなすものでありますから、一家の食生活の衝に当たる女性はもちろんのこと、男性の方々にもこれが認識を深からしめねばなりません。特に国家が少国民の体位向上を目指し多大の国費を投じて実行しつつある小学校給食や保育所の給食、食事療法に侯たねぱならぬ病院、あるいは集団給食を施す自衛隊、ならびに大工場の寮等では、栄養学の知識、公衆衛生に明るく、科学的調理の技術に堪能な栄養士を配置して万遺漏なきようにせねば、所期の目的を達成することは到底出来ないと考えます。

不肖、私、女子教育に従事すること五十有余年。就中、食物科の研究に専念すること三十五年間、この貴い体験を生かし、食生活の向上、環境衛生の改善に力を注ぎ、国民の体力増強と家庭の消費経済の合理化を促し、ひいては国家の富力にいささかなりと貢献し、以て教育者としての最後の使命を果たさんと決意し、終戦直後食糧事情が混沌としたる際、昭和二十四年三月中村割烹女学院を開設、これを基盤に昭和二十八年十二月福岡高等栄養学校を設立、翌昭和二十九年四月栄養士養成施設として厚生大臣の指定を受けました。

爾来、その道の大家や熟練な栄養指導者諸賢を招聰して御協力を仰ぎ、優秀な栄養士の養成に真蟄な努力を続けて参りました結果、世間の信望も高まり、卒業生の就職も九十彩という高率を示し、開校三年目には定員の三倍の入学志望者をみるに至りました。

しかるに第一回、第二回と送り出した卒業生の成績より考えまして、単なる栄養士養成の職業教育では完全なる人格の陶冶、高度の教養の涵養に欠陥があることを痛感し、いっそう栄養短期大学として専門的必須科目の研鑽を今一歩深め、かつ一般教養科目としてて倫理学、哲学を課して日本国民としての高度の教養を修め、以て教育の充実を計らんと、昭和三十一年九月栄養短期大学設置申請の手続きをとりました。さいわい文部省当局を始め郷土の知名有志の方々のなみなみならぬ御助力によりまして、翌三十二年三月十五日文部大臣の認可を受け、四月開学して今日に至ったものであります。

しかし、かくなるまでの私の踏んだ道は実にイバラの道で、決して坦々たる道ではありまぜんでした。この苦しみは、教育者としてはまことに貴い苦しみであったと考えます。今日の祝いに、厚生省から御臨席下さいました水長事務官殿は、その当時格別の御厚意を受けた御方で、改めて厚く御礼申し上げます。
何と申しても開学当初のことゆえ、設備万般未だ不充分な点は多くありますが、一応軌道に乗りましたので、この好季節に日ごろ一方ならぬ御厚意、御支援を仰ぎつつある方々に感謝の意を表する意味に於て、開学式典ならびに学舎落成式を執り行ないました次第であります。

さて、前途の計画は遼遠でありますが、まず第一に二カ年の栄養短大で充分の好成績をあげるには、その前身校たる高等学校教育と密接な提携を最も必要とする関係上、大学の予科としての高等学校併置の件も考慮せねばならぬし、また一般教養科目の実施もただ単に空理空論に止まらず学生の実習実行に訴えてこそ始めて効果を発揮するものでありますから、これまた実習施設を要するはもちろんであります。

さらに本学に課せられた使命より考えますと、広く食品学、栄養学、公衆衛生学、統計学、科学的調理の実技修得等々、総合された研究の府として社会の期待に応え、郷土文化の向上をはからなくてはなりません。かくのごとく本学の希望計画は次から次へ燃ゆる思いですが、要はあせらず、たゆまず、うまず、着々と実行の歩を進め、新時代に即応した理想の栄養短期大学の出現を標榜して、努力奮闘を続ける決心でございます。皆様におかせられても、これを諒とせられ、今後とも相変らず力強い御支援と御鞭捷を賜わらんことを祈りまして、式辞といたします。

昭和三十二年十一月一日
中村学園理事長
中村栄養短期大学長
中村ハル謹言

4-8 清節・感恩・労作 − 女子高校生まれる

中村栄養短期大学を開学して後、学生の学習内容の実際をみると、とても短大二年間には盛り込めないくらいに講義、実験、学外実習がつまっています。これではよほど基礎学力を持って入って来ないと実力はつきません。そのためには、短大の下につける予科的な高等学校の必要ということも漠然と考えていました。
そのような考えを持っているところに、私をしてどうしても高等学校設立へ踏み切らせた一番大きな動機は、この中村栄養短大に入って来る女子学生の生活態度を見たことであります。私の短大では、授業終了後の掃除は当然のこととして学生の務めになっていますが、あるとき掃除のしぶりを見ておりますと、雑巾を足の先につっ掛けて使ってみたり、雑巾の絞り方ひとつ知りません。
また先生にお会いしても、会釈の仕方ひとつ知らず、これでは女性としての躾は全く零です。恐ろしい気がしました。
今の高等学校は何をしているのだろう。進学のことや、知育のみで終わって、徳育はほったらかしになっているに違いない。

よし、それでは自分で高等学校をつくって、ひとつ理想的な教育をやってみようと決意したのであります。昭和三十四年ごろのことです。ちょうどそのころ、草ケ江にある県立福岡学園が糸島の方へ引越すのではないかとのうわさを耳にしました。さっそく県の方に当たってみましたが、はっきり決まったわけではなく、いつのことやら予想がつきません。

そうこうしているうちに、幸運にも中村治四郎先生(九州産業大学理事長)が短大事務局長、久雄君のところへ来られ「君の方で高等学校設立の計画があるなら、城西中学の西側に野上辰之助氏が、七、八千坪持っているが相談したらどうだ。君の方で要らんなら僕の方で欲しいくらいだ」と、教えて帰られたと聞きました。渡りに舟とばかり現地をみると、栄養短大からはわずか三百メートルくらいしか離れておらず、格好の土地なのであります。よく調べてみると、野上辰之助氏は炭坑業で財をなした方で、野上鉱業の会長をしておられることがわかりました。直ちに譲り受けの交渉に入ることになり、結城正雄氏(日活九州支社長)と県会議員の曽我薫先生に野上氏の意向を打診してもらうと、教育事業にその土地が生かされるのであれば条件次第では譲ってもよいとのこと。さっそく事務局長と桜井匡教授(野上辰之助氏とは以前よりの知り合い)をやり譲渡の折衝に入らせました。

折衝も大詰めにきたところで私が出向き、野上氏に会って二十分間で結論を出し、契約を結びました。六、七〇〇余坪を一回目、二回目、三回目に分けて譲渡する云々の内容でした。

これが昭和三十四年五月ごろのことです。
この土地は野上辰之助氏が農地のまま所有され、都合により福岡刑務所に服役中の受刑者のほぜ野菜畑に提供しておられたもので、そのころは一面の櫨の木畑でした。農地ということであれば、これはそのままでは学校の用地にされません。
当時は農地転用は非常に厳しい制限がありまして、この許可申請にも事務局は苦労したようであります。許可はなかなか下りませんでした。校舎の建築に早くかからないと、翌年四月の開校に間に合わないようになります。ついにせっぱつまって、また楢橋渡代議士を煩わし、一ときの農林大臣福田哲夫氏を動かして農地転用の許可を急いでいただきました。

さて、校舎建築についてはいろいろと深く考えてみました。今度は思い切って斬新な建築をやってみたい。それにしても、資金は充分ではない。どの建築業者がよいか、いろいろ検討し、結局辻組がよろしかろうということになりました。
辻組の社長辻長次郎氏は前からよく知っていましたので、学校に来てもらって相談しました。
「今度の高等学校の校舎はモダンなものを作りたい。辻組さんにお願いしたいと思っている。ただ資金の方は余り持ちませんから、支払いの方は少々延びるでしょうが、それでもやってもらえますか」「中村先生のことですから間違いないと信用しています。ひとつ立派なものをつくりましよう」
と、辻さんは言下に約束してくださいました。

結局、設計は大部、的場、岡田の三者協同で大部設計事務所が直接責任者になり、建築施工は辻組で建築にかかったのでした。
ところで、高等学校が発足したあかつきには私が校長で大いに自分の教育理想を実践したいと意気込んではおりましたが、ここで考えなければならないのは女房役の教頭の人選如何ということです。
教頭を誤ると、学校運営はうまくいきません。そこでいろいろと考えたすえ、かつて中村割烹女学院で苦労を共にした末松みさを先生の御長男慶和氏が九大卒業後、学芸大学の先生をしておられ、教育界に顔の広いことを思いつきました。すぐに、慶和氏に来ていただきました。
「今度このような女子高等学校をつくることになりました。先生は九大教育学部の御出身で、県内教育界の人物についても詳しいと思います。九大の教育学部とも相談して教頭適任者を推薦してください」

真面目な末松慶和先生は私の願いに、九大の平塚教授や原教授とも相談され、二・三人教頭候補を持って来られました。しかし、どうも今一歩というところで人物に難点があります。それも駄目、これもどうもと断わるもんですから、末松慶和先生も弱っておられたようです。平塚教授のところに何回も通っておられるうちに、先生から「中村先生の気にいる教頭はおらんぞ。末松君、いっそ君が行ったらどうだ。そうし給え」ということになり、末松慶和先生は学芸大学助教授の現職を捨てて本校に赴任なさるようになったのです。昭和三十四年秋のことでした。実際の着任は、翌三十五年からになりましたが…。後になって、このときのことを末松先生は頭をかきながら「あのときはとうとうミイラ採りがミイラになってしもうて」とよく笑って話ざれますが、そういえぱその通りです。

このときの末松教頭先生が昭和四十四年九月から二代目校長に就任されたのです。
高等学校を新設するための県あての申請事務を進めるため、坂田政二郎先生、富沢民次先生は早目に就任してもらい、県あての折衝および事務に当たっていただきました。

ここで、特に書き残して、おかねばぱならないことがあります。
その一つは、この高等学校は私の信念に基づき、女子高等学校として女子教育を専門にしたことであります。私は以前から高等学校、すなわち後期中等教育の段階では、男女別学がよいとの立場に立っていますし、また実際に男女共学の高等学校では男性、女性の本質に基づく人間教育は甚だむずかしいことであると考えております。

その二は、徳育の中心となる徳目を掲げて人間教育を重視する高等学校をつくるということであります。この女子高校では清節 清く、正しく、優しく、強く感恩天地自然の恵みに対する恩・国の恩・君の恩・師の恩・父母・兄弟・姉妹の恩・友の恩などに感謝して生きていく労作頭脳を使って働き努力を重ねて生きていくを、その三つの徳目に掲げることにしました。

このような趣旨から、建築の方も第一期工事に引き続いて第二期工事は女子教育に特に必要な家庭系実習室を重点に建設しました。第三期工事は人間教育の道場として講堂を建設しました。次々の建築で事務局長も財政的には随分苦労したようですが、この間の親戚一同の応援は忘れてはなりません。
幸い教頭以下竹森事務長、それに優秀な教師が次々に揃われ、入学志望者も逐次ふえて学校の基礎も固まった次第です。
その後のことは、ここに改めて記録に止めなくとも皆様御承知のとおりです。

4-9 情熱充たす中村学園大学

私の教育に対する欲望と情熱は膨らむばかりでした。それまで栄養短大の実績をみてきた私には、学問研究の深さにおいてとても短大程度では満足することはできません。やはり四年制の大学でなければ、高度の研究は無理であるとの考えを懐くようになってきました。そのころのことです。高等学校設立のときうやむやになっていた県立福岡学園が、今度は筑紫郡の方へ本当に移るらしいという情報を耳にしました。事務局長に当たらせますと、県の方でもかなり具体的に進めているとのことであります。
すぐ理事会にはかりますと、理事会でも私の考えを理解されて相当の困難は覚悟の上で、中村先生の最後の教育執念を実現しようと一決しました。

これが昭和三十八年ごろのことであります。このころは高等学校の方も軌道に乗っておりますし、中村栄養短大も十年に近い実績を積み、事務組織、教員組織も一応体をなしてきていましたので、私がいちいち細かいところまで手を下さなくとも、それぞれの指示によって事が運ぶようになってきていました。
しかし、それでもこの草ケ江の県立福岡学園の土地の払い下げについては、そのむずかしさは並み大抵のことではありませんでした。私も三、四回、ときの知事鵜崎多一先生にお会いし、私の教育に対する信念を吐露して訴えたことを忘れ得ません。鵜崎知事も、こと教育のことであればと非常な理解を示してくださいました。この土地の払い下げが本格的に決まったのは、昭和三十九年も暮れがせまってからであります。

細かいことは私の知る由もございませんが、ときの短大の父兄後援会長永島武雄氏の陰の御尽力はとても筆舌に尽くせないものであったと覚えております。一時はこの土地の払い下げは断念した方がよくはないかと思ったくらいでした。土地の話が一進一退ながら進みつつあるとき私は新大学の構想を練りました。食物栄養学科は当然のことであります。とすれば、学部は家政学部ということになります。文部省では少なくとも一学部に二学科は設けなくてはいけないと指導されています。このとき天啓のようにひらめいたのは、もう一学科は児童学科だということでした。私が教育者として最後に遺すものは、児童学科しかないとの決論に達したのです。

理事会の席上、この構想を発表いたしましたところ、皆さんはあまりよい顔をされないばかりか、四年制大学で児童学科のあるところが全国で十二、三校あるが、どこも入学志望者が少なくて困っているようだ。短大の児童教育科などにはわんさと押しかけているが、四年大学の方は学生の集まりが悪く、ひいては経営上苦労が多いですよ、とのこと。けれど、私の考えは違います。学校の経営とか、財政のことがどうあれ、とにかく今後の日本に必要なのは健康な身体であり、立派な精神を持った人間なのです。この身体づくりの基をなすのが食物栄養学科であり、人づくりの基をなすのが児童学科との信念を持っています。理事の皆さんもどうかこの私の悲願を理解してかなえてもらいたいと訴えました。皆さんも理事長がそれほどまでに固い御決意であれば、何をかいわん、皆その理想を生かすように協力してやっていこうと決議されました。このようにして学部-家政学部、学科食物栄養学科、児童学科の二学科を設置することになりました。

文部省あての大学新設の設置認可申請についてはこのころはしっかりした事務局ができていましたのでそれほど心配はしませんでしたが、県立福岡学園の土地の払い下げが文部省で要求される計画通りに行なわれていない理由で、一とん挫あるやに思われました。だが、福岡県関係当局の英断でこれも解決し、あとは何とか順調に運び、昭和四十年一月二十五日付けで文部大臣の認可を得たのであります。

食物栄養学科、児童学科とも、その後優秀な先生方が揃われ、また内部の施設設備も整い、食物栄養学科においてはこの学科をさらに二つの専攻に分離して①食物栄養学専攻②管理栄養士専攻となり、さらに児童学科のために大学付属あさひ幼稚園を開設して今日に至っております。 五月十七日、本学園の創立記念の日をトして大学開学式ならびに第一期新築校舎の落成式を執り行ないましたが、そのときの私の式辞がありますので記録に残しておきます。

中村学園大学開学式ならびに第一期新築校舎落成式式辞

野も山も新緑に包まれる五月晴れのこの佳き日に、中村学園大学の開学式ならびに第一期校舎新築落成式を挙行いたしますに当たり、文部大臣代理玖村学芸大学長を始め県市御当局、財界の知名士、郷土の知名士、父兄後援会の方々など多数御臨席を賜わり、かくも盛大に式をあげ得ますことはまことに光栄の至りに存じます。

さて、世界の文化はこの二十世紀に於て驚くべき発展を遂げましたが、わけても我が日本は大東亜戦争の敗塵の中から立ち上がり、わずか二十年の間に急速に進歩し、経済、文化に於て世界の一等国と肩を並べるようになりました。そのゆえんは、大和民族の特徴である隠忍自重、奮闘努力によるものであります。しかし、この際われら同胞が心を新たにして世界の情勢を静観する必要があると思います。

現在、文明はなるほど進んではいますが、ひるがえって精神生活は・・・・・・と考えますと、逆に退歩してはいないかと疑われるのであります。これははき違えている民主主義者と、革命を目的としている共産主義者とが相争い、相かみ合って、人類社会を騒がせているからではないでしょうか。

人間は他の動物と異なり、精神が最も大切であります。同じく民主主義と申しても、英国には英国式の民主々義があり、米国には米国式の民主主義があるごとく、我が日本には長い歴史と立派な伝統があり、それに国民は愛国の精神に燃えて、今日まで日本国を育ててきたのであります。近来、その民主主義をはき違える人々が多くなり、世の中を混乱させていますが、そのためか不良化青少年の犯罪が増加してきています。
これは戦後、和合を欠いだ家庭での母親の教育の不徹底にもよると考えます。ともあれ、私どもは日本国民として進むべき進路を見きわめ、祖国日本の建設を一段と堅固ならしめるためには国民それぞれの立場に於て忠実に努力することが最も大切であります。

私は明治三十五年三月、当時福岡県が日本一の教育県として称揚されていたころ福岡師範を卒業しました。十八歳より教員生活に入りまして、二十六歳のときあたかも福岡県男子師範学校付属小学校訓導時代、弟関次郎が東京高等商船学校航海科在学中結核にかかりましたので、母に死別した私ども姉弟のなかで、私が母に代って弟の病気治療の一切を引き受けることを決心しました。何とかして弟を全快させたいものと苦心惨たんすること十数年間、しかしその甲斐もなく弟はあの世へと旅立ちました。

時に、私は三十六歳。ここで、父や姉と相談のうえ姉の末子久雄氏を私の世継ぎにいただき、私は独身生活を決意、一生を日本一の家庭科教師として立たんと元気を振るって横浜市岡野小学校に赴任しました。昼は学校教師、夜分、日曜、長期休暇には帝国ホテルや雅叙園、さては日本料亭に入り込んでコックとなって調理の技術を磨きました。東京をすませて、次は神戸市明親女子高等小学校の家庭科教師をつとめ、また神戸京都、大阪の一流ホテル、料亭で調理の腕を磨くこと前後十年間。福岡市九州高女の興隆に尽くさんと神戸市教育界を辞して、昭和五年同校に赴任しても長期休暇を利用しては東京、大阪、京都へ出かけてコック生活十八カ年間、随分の苦労でした。

大東亜戦争敗戦後食糧事情が著しく悪く、国民の体位の下落見るにしのびず、料理学校を建てて、食品の合理的な使い方や料理の技術、さては栄養の知識を授けて、少ない材料でより以上の効果をあげる調理法を教えて食糧難を救わんと、昭和二十四年四月に中村割烹女学院を創設しました。入学者引きもきらず、三年後には一千名を突破する盛況でしたが、これが私の私学経営の最初であります。その後研究の結果、栄養士養成の必要切なるを感じ、昭和二十八年に福岡高等栄養学校を設立、ついで昭和三十二年には同校を母体として中村栄養短期大学を設立し、同時に短期大学教授の資格を得て学長に就任しました。

かくて、公立高校卒業の女子学生をあずかって教育を行なっているうちに、高校の男女共学は教育理念にもとる点多々あるをさとり、模範的な女子高校をという意味でやむなく中村学園女子高等学校を昭和三十五年四月開校いたしましたが、風をしたって入学する生徒は九州一円、中国にまたがり、現在では生徒総数二千五百名を突破し、教職員数百十数名を数える大世帯になりました。
ここで、私の胸を打つものが三つあります。その一つは、小、中学、高等学校の少年少女の不良化の何と多いことかということ。いま一つは今回のオリンピックで見せつけられた日本人の体格、体力が、世界のそれよりレベルが低いこと、そしてわが国経済力がまだ低いことであります。

私、身を教育に捧げること六十五年、就中家庭科教師として特に食物、育児、家庭経済のこの三科目について格別の研究を積んで今日に至った関係上、最後の国家社会に奉公するのはこのときと立ち上がり、ここに四年制大学家政学部を設立せんと決意、まず児童学科と食物栄養学科を設けることにしました。さっそく理事会にはかりましたところ、教育に格別熱意を持たれる奥村茂敏理事、杉本勝次理事、徳島喜太郎理事、山田、桜井両理事の賛同を得たので、中村事務局長を先頭に、若いそうそうたる事務職員が立ち上がり、すぐ文部省や厚生省あてに設立認可申請書を出すことになり、徹夜の勢いで奮闘した結果が実を結び、第一回で見事パスしたわけであります。

これについて、第一に申し上げておかねぱならぬ敷地の件があります。これは五、六年前より私がわが中村学園の校舎敷地として目をつけていた福岡学園の移転の跡地で、環境といい、便利といい、大学敷地としては最適であります。また建築の方では、第一期工事は辻組に命じて超突貫工事で見事出来上がり、今日落成式を行なう運びに至った次第でございます。かくなったのは県市御当局の方々、県市会議員、父兄後援会の方々の並々ならぬ御後援の賜で、高いところがら深く感謝の意を捧げる次第であります。

中村学園大学という特異の大学が西日本に産まれ、この大学において賢明なる母親を養成し、身体健康、頭脳明断で、立派な日本人を育てうるすぐれた人材の育成と、管理栄養士を養成して今一歩高い国民の栄養指導者を育て、教育者としての最後の御奉公をいたす決心でありますので、皆様におかせられましても陰となり陽となって御指導下さいますよう御願いして、今日の御挨拶にかえます。

昭和四十年五月十七日
中村学園理事長
中村学園大学長
中村ハル謹言

4-10 たたえる日の丸の十二徳

昭和三十七年前後のことであります。中村栄養短期大学長と女子高校の校長をも兼ねておりましたが、青少年の非行化の問題とか、戦後教育の荒廃とか、私は私なりに日本の教育のあり方につきいろいろと思い悩みました。それが私の思想から発するものか、体験に基づくものか、恐らくその両方が混ざり合ったものでしょうが、何か日本の教育に一本抜けたものがあると漠然と感じていました。

種々思い悩み、研究し、考えをまとめているうちに、だんだんとはっきりして参りました。すなわちそれは戦後の教育改革により、我が国には教育基本法なるものが制定されましたが、これは日本人に対する教育観としては何か欠けています。戦前には教育勅語が厳存し、日本人はかくあって欲しいという人間理想像が示され、またわれわれもそうありたいものと努力をしてきたはずであります。それが戦後取り除かれてしまって、われわれ日本人の実践的倫理綱領がなくなったからに違いないと悟りました。

ちょうどそのころ、私は福岡県日の丸会副会長の職についておりまして、国旗日の丸についての研究もし、関心が強かったのであります。日本人と日の丸-日の丸の表現する美しさ-このなかに、私が理想とする日本人としての人間形成目標が示されていると感得したのであります。具体的にいいますと、国旗日の丸が持っている色や造形を精神的意味にとらえ、これを人間陶冶の徳目として掲げ、日常の徳性酒養のもとにする考えに至ったのであります。私はこの「日の丸の十二徳」を入学式、卒業式、その他の行事ごとに学生、生徒に説き、私の訓話の一部といたしております。
また本学助教授河村順子先生の御世話で「日の丸の歌」を私の責任で制定し、学生、生徒にも愛唱させております。

ここに重複をいとわず「日の丸の十二徳」を記録に残しておきます(略)。

4-11 全国料理学校協会会長に就任

昭和三十二、三年ごろには、わが国の料理学校は北は北海道から南は九州まで、数にして三、四百校を数えるほどになっていました。わが国食生活の改善向上に大きく貢献し得る存在になっていたのです。しかし、各個バラバラで統一した力を発揮するまでには至っていませんでした。これではいけない。何とかこの料理学校の連帯を強めようではないかと呼びかけられたのが、食味評論家の多田鉄之助先生。それに中央の日本料理研究家山下茂先生、服部料理学校の服部道政先生等であります。九州にも呼びかけがあり、私もこれに参画し、全国各地からも主だった料理学校の先生方が集まられて、ここに全国料理学校協会が誕生したのであります。九州の方では、この全国料理学校協会の結成にならい、私が中心になって地区組織の結成を呼びかけ、昭和三十四年六月結成のための総会を開き、会員の方々の推挙によって私が全九州料理学校協会会長に就任しました。こうして、私は九州全域の料理学校のお互いの協調と、その発展に尽力しなければならない立場に立たされたわけであります。

昭和四十年に全国料理学校協会初代会長多田鉄之助先生が退任なされ、二代目会長に大阪の辻徳光先生が就任され、私はその副会長に推されました。このころから料理学校協会のことで随分遠方に出掛ける機会が多くなりました。昭和四十三年には辻徳光会長が病気で亡くなられた後を受け、全国料理学校協会三代目会長に推されて就任しました。九州の僻地の私が全国の会長に推されたのは、東京と大阪との間に以前からしこりがあり、そのため中立の私が最適任とされたためのようです。ともあれ、この協会内部には以前から地方ごとに利害の複雑な関係があって、なかなかまとまりがしっくりいきません。私はそのために、何度も飛行機で遠方に出かけ、いろいろのもつれの調停に出なければなりませんでした。そのためとうとう昭和四十三年夏にはもともと悪かった膝をいよいよ悪くしてしまい、ついに車椅子の厄介になる羽目になったのであります。

4-12 努力に光る勲章

昭和三十八年十一月、思いもかけず私は藍綬褒章受章の栄に浴しました。教育功労者としての受章でございました。私ごときものがこのような栄誉に与かるとはと、心から感激いたしました。受章のため上京して天皇皇后両陛下に拝謁したときは、私のような明治生まれの者にとっては膝頭がふるえるほどの興奮をおぼえたものです。

宮城内を参観してよろしいとのことでしたが、私は足が悪いのでとても全部は見て歩けないと諦めていたところ、ちょうど以前福岡県衛生部にいられた宇土条治氏が宮内庁の課長をしておられるのを思い出して連絡をとりますと、わざわざ出て来られ、車で宮城内を見て回れるように取り計らって下さいました。重ね重ねの光栄に身の縮まる思いで参観させてもらいましたが、陛下が植物研究をなさる研究所などまことに御粗末なもので、その質素さに恐縮したものです。

昭和四十年十一月、今度は勲三等瑞宝章受章の栄に浴しました。勲記、勲章は文部大臣から頂き、続いて宮中に参内して親しく天皇皇后両陛下に拝謁を許され、恐れ多くもねぎらいの言葉まで頂きました。このときの感激は終生忘れ得ぬところであります。

それにしても、私ごときものが二度も受章の栄に浴し、教育功労者として身に余る栄誉を担ったことは、これはひとえに私をして今日まで陰に陽に助け、指導し、協力され、後援された多数の方々の賜ものであって、何とも感謝の言葉もないほどです。私自身、今後とも長生きしてなおいっそう社会のため、わが国教育のためにつくしたいと決意を新たにした次第であります。

このごろ、私のところによく教え子から何か色紙を書いてくれとたのまれます。私はそのときたいてい「努力の上に花が咲く」と書くことにしております。私の一生が努力の連続でありましたし、その努力が報いられて今日の私があると思うからであります。そして、そのような生き方がまた、人生の一つの指針にもなればと思うからでもあります。