学校法人中村学園

学園祖 中村ハル先生の想いと記録

学園祖 中村ハル自伝
努力の上に花が咲く

第1部 
教育者の道をたどって

1-1 生いたち

私は明治十七年六月一日の生まれになっております。当時は今のように電気はなく、夜ともなればアンドンをともし、車といえば人力車のことであります。しかし、世界の帝王の中で最も優れた方とあがめ尊ばれた明治天皇の御代に、しかも日本の勃興期に生まれた私は実に幸運児だったと今更ながら有難さで一杯であります。

家は今でいう中農程度の農家で、父徳右衛門はなかなか知恵も多く、世話好きで当時の福岡県早良郡西新町(現福岡市)における顔役だったそうであります。母サトは粕屋郡仲原では大農の部に入る末若家の出で、この人は本当に人情に厚い方でございました。徳右衛門の父即ち祖父専太と母サトの父長平とは兄弟の間柄ですから、私の父母はいとこ同士の結婚ということになります。私の兄弟は本来六人ですが、私がもの心づいたときはそのうちの兄一人が幼没していましたので五人になっております。長女タミ、長男松次郎、二女が私で、二男関次郎、三男専吉という順序で、私が八才になるまでは家には祖母ヤス、両親、子供五人と貧しい中にも睦じく和気あいあいの中に育てられ成長したものであります。

1-2 運命決めた股関節脱臼

私は小さいときからとても元気がよく、またきかん気の負けずぎらいのところがあったそうです。
ちょうど四才のとき、近所の子供達と一緒に遊びたわむれていたところが、私が急に足を痛めて泣きわめき始めました。両親が飛んで来て見ると、足が立たなくなっている。早速、その頃はやりの稲荷神社信仰のお婆さんに見せたら「これは、二、三日前にここで崖崩れで死んだ人のたたりだ」という訳で、毎日毎日祈祷ばかりして全快を祈るだけで一向によくなる気配はない。それどころか、左モモはますます腫れあがって熱も高く、朝から晩まで泣き続けていたそうであります。遂に困りはてて医者に診てもらい「ボングヤ」とかいうとても飲みにくい薬を飲まされたそうですが、この飲みにくい薬を我慢して飲んだのには両親はじめ祖母も驚いたそうであります。とにかく、私は幼いときから気が強かったのでしょう。このようにして熱もおさまり、たまった膿が左モモから水鉄砲の勢いで出尽くしてしまうとともに痛みもとまり、その後は日一日と快方に向かいました。今でも左モモにそのときの傷あとが残っています。年老いて右膝の関節の痛みの治療でレントゲンを撮ってもらうときについでにいろいろと調べてもらいましたが、この幼少の頃の事故は結局股関節脱臼だったことが判りました。医術の進まない時代とはいえ、脱臼の手当さえ正式にしておれば全快していただろうにと思います。このようにして生まれつきならぬ一生の傷となって残り、私が一生涯不自由をしのばねばならぬ破目となったのであります。しかし、物は考えようで、今から思いますとこのような身体になったればこそ私の今日があるのであって、運命の機微はなかなか人間の知恵では容易に推し測られません。

左足の痛みがとれて後、両親はよく暇ができたら豊後(現在の大分県)の温泉に入湯につれて行くと喜ばせていましたが、とうとうこれは実現いたしませんでした。それもそのはずで、この頃はまだ汽車はなし、入湯に行くにも人力車か、歩いて行くよりほかに方法はなく、親が子供をつれて旅することは並大抵のことではなかったのであります。

1-3 兄のお守に入学

左足の故障はなおらずびっこをひきながらも身体はいたって健康で人一倍わるさもひどかったそうです。七歳(数え年)になって小学校に入学することになりました。当時は満七歳で入学するはずのところ、兄松次郎が学校に通うのをいやがるものですから妹の私が兄の監視役としてつけられ、一年早く入学したわけです。この頃の尋常小学校は四年でしたが、必ずしもしいて入学しなくともよい位の時代で、尋常小学校を卒業すればよい方で高等小学校に進む人は男女ともよほど裕福な家庭の子供に限られていた時代であります。

私は尋常小学校一年から四年で卒業するまで優等生で通しました。卒業式のとき、西新町長伊勢田宗城氏その他の来賓の前で「孝心なる猿の話」と題した講演をさせられ、来賓の方々から非常な賞賛をいただいたことを今でも憶えております。

1-4 若き母の死

子供にとって最も慈愛深き母サトは私が八歳(数え年)のとき、今でいえば流行性感冒にかかり他界いたしました。このときの家庭は、姉タミの十四歳を頭に、二歳の末弟専吉を含め三男二女と父、それに祖母を遺し三十五歳の若さで病没したのです。このときの父の悲嘆がどんなであったかは想像に余るものがあります。しかし、気骨のあった父はこの程度のことで運命に負けてはならないと決意を新たにしたようであります。当時の農家は大体がよく働くようになっていましたが、父は特によく頑張りました。早朝から夜おそくまで田や畑に出て働き、 姉と四、五人の雇婦がこれを助けました。年老いた祖母が家の炊事をし、私と長兄は学校から帰ると「カラウス」と言う米描きの道具で白米にすることを手伝ったものです。

人間というものは苦難の道に立たされると、私どもの当時の家庭のように家族全員が一致団結するものです。私のような小学校に通いはじめたばかりの幼い子供ですら、米描きをして家族が何とかやって行ける力になるものです。甘やかしては我がままな子供しか育ちません。決して強い人間には成長せぬものとつくづく思います。

このような家庭の状態が続き、どうやら落ちついて来つつあるときに、今度は頼りにしていた祖母が八十八歳の高齢で亡くなりました。ちょうど私が高等小学校二年生のときであります。(当時は小学校四年、高等小学校四年) こうなりますと、炊事の方は平素は人を雇ってやらせていましたが、夏休みや冬休みになると昼食、夕食の用意はわずか十二歳になる私の細腕にかかって来る訳で、家族と雇人計十数人前の食事を引き受けてやることになりました。当時、あの若さでよくやったものとわれながら感心しますが、皆からほめられるのが嬉しさに頑張ったものです。

子供を育てる家庭教育の場でも、或いは学校教育に於ても、その年齢に応じそれぞれ独立心を養うように努力させれば、それなりに成長して行くものであることを、私の体験上より痛感いたします。 食事がすむとアンドンの薄暗いあかりの下で、国語、地理や歴史等の本を開いて勉強したり習字や絵等も書いていました。こんなに暗いあかりの下で勉強していましたので眼が悪くなったかといえばさにあらずで、私八十歳をこえた今日でも眼鏡をかけることは稀で、よほど小さい字を読むとき以外は絶対眼鏡はかけません。

近頃の若い青年学生は実に恵まれていて、電気の煌々たる光の中で勉強していながら近眼が多く、体格は立派でも、いつも眼鏡をかけているのが不思議でなりません。

また、あまり勉強もせず、夕食がすむとすぐラジオやテレビの前に座りこんで、なかなか動こうとしないのが多いのではないかと思います。この文明の利器も上手に使えば効果も大したものですが、家庭の教育がしっかりしていないと、かえって勉学の邪魔になります。道徳教育を阻害するような番組も少なくないので、これらの影響によって面白半分で一つやってみょうかな―などといつの間にか悪の道にふみ入る少年青年も少なくないのではないかと考えます。

幼稚園、小学校時代では学校と家庭とがよく連絡をとってテレビの活用の仕方についてよく訓練しておかなければなりません。中学校、高等学校では時間をきめて教育上弊害あるものを発表する時間には絶対見せないようにすることです。一方において、ラジオやテレビ局はどんなにしたら国民の教育、道徳、文化の進展に役立つかを考えて番組をつくり、害にならぬ程度にやってもらわねば、何でも面白くさえあれば・・・というような今の調子では実は有難迷惑とさえ思われます。アンドン時代、ランプ時代に大切な青少年時代を過ごされた方々が、戦後の日本の再建の先頭に立ち今日の日本の復興の指導者になられていることを思うとき、明治時代の力強さを感じ、また人創りは必ずしも文明開化のみによるものでもないと痛感します。

1-5 町長の頼みで高等小学校へ

かくて私は尋常小学校卒業後、すなわち明治二十七年四月に高等小学校に進学、ここで鍛えられること四カ年でした。この頃、高等小学校に入学するものは早良郡全域から女子だけではせいぜい三十四、五人程度。よほどのお金持か家柄のうちでないと高等小学校までは進まなかつた時代であります。このように教育程度の低い当時、どうして私のような農家生まれの、しかも家庭は母を失くして困っている状況の者が高等小学校に入学したかについては、是非ふれておかねぱならない事情があったのであります。

ときの西新町長は伊勢田宗城氏という方でかねがね同氏は西新町から一人立派な教員を出したいと願っておられました。そこで目をつけられたのが私というわけで、その町長さんは私の父を口説いて農家の手も不足だろうがハルさんを是非教員にして欲しい、それには尋常小学校だけで辞めさせるわけにはゆかぬということとなったのであります。私も高等小学校に進んでから、いつも成績は首席を占めて、卒業いたしました。この頃の高等小学校の存在は、ちょうど現在の高等学校ぐらいに匹敵するのではないかと考えます。この頃の女性は自らをきびしく持する気風が強く、また明治天皇の教育勅語を道徳の基盤として朝な夕な訓育を受けていまして、生徒として現在中学、高校に見られるような暴力行為や非行はありませんでした。私が高等小学校四年生のときクラスの女生徒が某青年から手紙を貰ったとかで、私の知らぬ間にクラスの全員から非難され制裁を受けたことがあります。いわゆるクラスの共同制裁で一人でも変な噂を立てられる人があると同級生がそのまま放任せず、団結して矯正して行く風潮があった訳です。私が級長をしていたものですから、そんなに強く当たるのは可哀想だと止めるくらいで、もちろん組担任の先生はまったく御存じないことでした。

これを今日の中学生や高校生に見ると、生徒の非行が世間に知られ話が大きくなると、担任の先生がうろたえて本人や父兄に注意はするが、他の生徒は何知らぬ顔で平気。これをクラスや自分たちの恥とも何とも感じていない。中学生や高校生で親の目を盗んで桃色遊びにふけったり睡眠薬遊びに迷いこんでいる者をときどき聞くが、これをとがめる愛情ある同級生が居ない。気をもみ真剣に取り組んでいるのは担任の先生や校長だけという有様。これからみると、明治時代の学童の道徳教育と戦後のそれとの間には雲泥の差があるといえます。

日本国民も、こんなに落ちぶれたかと思うとほんとうに情けなくなります。 また、私の高等小学校時代は、あたかもあの有名な明治二十七、八年にかけての日清戦争時代にあたります。この頃の日本人は明治の学校教育、教育勅語の教えを受け、軍人は軍人勅諭により鍛練され忠孝一本個々の家と国とのつながりも強かったものです。国に一旦緩急ある場合に一命を捨てるのを男子の本懐とし、親もそれを名誉この上なしと考えていました。軍人として出征するときは村、町内こぞって日の丸の国旗を振って送ったものです。今だに私の頭の中に当時の模様や万歳の声が残っております。このようなわけで国を挙げて一致団結、戦いはいたるところで連戦連勝、私ども学校の生徒は戦勝の号外が出る度に日の丸の旗を手に手に町中をパレードしたものでした。日本人の頭の中には、日本軍は愛国心に燃え、かつ強いので、戦えば必ず勝つものときめていたくらいです。

1-6 姉弟そろって首席

明治三十一年三月、西新尋常高等小学校を首席で卒業いたしました。私のすぐの弟関次郎はこのとき高等小学校一年生から一級とび越えて三年生になっていましたが、成績は私よりはるかによく各学科の得点はほとんど百点、悪くて九五点以上でこの点姉として少々ひけ目を感じていました。このように姉弟二人が同じ高等小学校で首席を占めていましたので、妻を失くした淋しい父は有頂天になって子供のことをいつも自慢しているような風でした。

前にも述べていますように、私は七歳(数え年)で尋常小学校に入学した関係で、高等小学校を卒業して師範学校に入学しようとしても年齢が二歳足りません。仕方がないので、当時ありました福岡師範学校付属の補習科に入ることになりました。この補習科には師範学校入学準備のために入っている人が三十人ばかり居たように思います。補習科の授業は師範学校の男、女教諭が担当されていました。女教諭では東京女高師御卒業のパリパリの土屋先生、富岡先生、広田先生等がおられ、いつも整然とした服装で美しく、しかも御指導ははきはきしていて若い私の心を強く打つものがありました。これらの先生方の御姿を見れば自然頭が下がり、なにか神々しいものを感じたものです。明治時代の東京女高師御卒業の先生方の態度は、今日では拝むことの出来ないくらい気品高いものがありました。

この補習科時代、私の頭に刻みこまれていることの一つは付属小学校でも、また私共の属している補習科でも、清潔整頓の厳しかったことです。付属小学校の生徒も上級生は薄暗いうちから学校に来ていて便所の掃除などやっていましたが、私は西新町の自宅から補習科の校舎まで徒歩で通学しているくらいですから、それこそ朝暗いうちに提灯をつけて掃除にかけつけるというぐあいでした。女の先生が御登校にならないうちにきちんと掃除を終り、先生の御出勤を待って検査をお願いすると、先生は隅から隅まで見てくださってニコニコ顔で「ハ、ヨク出来マシタ」「御苦労サマ」と簡単に褒めて下さいます。私は先生のこのお褒めの言葉を頂くのが何より有難く光栄に感じていました。今考えると純真そのものだったのです。

今一つこの補習科時代で忘れえないのは、付属小学校主事をしておられた大久保先生の講堂修身のことであります。まず楽器の音に合わせて歩調を揃えて堂々と講堂に入場、暫く黙想、それから教育勅語の暗誦を命ぜられた生徒の発表。それが済んで最後に大久保先生から訓諭があるのが常でしたが、この講堂修身は私にとりましては修養上非常に為になったと考えます。

1-7 年齢ごまかして師範入学

いよいよ補習科の一カ年間も終り、師範学校の入学試験を受ける段階になりました。しかしさきに述べたように私は小学校に一年早目に入学している関係で、満十五歳には達しておりません。当時師範学校に入学出来るのは満十五歳以上と言う年齢の制限があったわけです。しかし、伊勢田町長が西新町から立派な教育者を一人出さねばとの強い念願で、私にしいて高等小学校や師範学校補習科入学をすすめたいきさつもあって、年齢不足は町役場の方で少し戸籍面をいじり入学試験を受けることができました。当時はその方面は割合のんびりしていたのでしよう。これが明治三十二年二月のことであります。なにさま年齢満十五歳以上でなければ入学出来ないのに、本当は満十四歳と数カ月なので口頭試問でも子供らしいことばかり答えたらしく、校長の浜口先生や補習科のとき教わった土屋先生、富岡先生方から年をもぐって入学しておくと後でわかるとたいそうな罰金を出さねばならぬがそれでもよいかとひやかされる始末でした。私は伊勢田町長さんから満十五歳と一ヵ月余るように作っておくからそう答えなさいと指示を受けていましたので「満十五歳と一カ月余ります」と真面目くさって申すものですから先生方もおかしくなってふき出してしまわれました。

こんなことなので、私も今回は駄目だろうとあきらめて百道松原に松露採りに行っていました。ところが「学校の方から合格の通知が来たよ」との使いがきたのです。私は飛び上がらんばかりにして喜んだことを記憶しています。この頃は高等女学校も全国的に数少なく、中学校といえば県内では修猷館、久留米の明善校、柳川の伝習館くらいのもので、このときこの師範学校に県下からの受験生約九十名のうち三十五名が合格したのであります。私も幸いにその中の一人に入りましたので、父はもとより伊勢田町長さんも大喜びでした。当時の我が国の教育の水準はその程度だったのです。

1-8 師範教育のきびしき

この頃の福岡師範学校は今の福岡市荒戸、いわゆる荒津山の麓に一校あるだけでした。男女合同の校舎でしたが、現在いわれているような男女共学ではありません。女生徒は女子だけ、男生徒は男子だけの組編成になっており、したがって授業の時間割も別々です。全寮制で女子寄宿舎は校舎を中心にして西の端にあり男子寄宿舎は東の端にあって、舎監も女子寄宿舎には女教諭の方がおられました。舎監長は男子の先生でした。寮生活の食事はもちろん、衣服、はき物までいつさい官費支給ですから、あたかもその頃の軍隊と同じ扱いです。

冬着は老人の着るような質素な瓦斯縞のあわせ着、夏着は地味な久留米緋が毎年一枚ずつ支給されます。下着は必ず白地の晒布でこれは各自が作るのですが、衿はすべて白ということになっていました。袴は黒地の毛嬬子のお揃いでこれも支給品でした。

食事の作法や夜間の黙学時の厳しさはまた格別、黙学時間中は私語はいっさいできません。座る姿勢も正しく座って横ずわり等は許されませんでした。黙学時間の午後七時から九時までは真剣に勉強したものです。なにしろ県下から僅か三十五名だけしか入っていない優秀生ぞろいですので、皆競って勉強したものです。黙学時間がすむと、あと一時間は自由な勉強時間でこの間は少々の私語は許されていました。

清潔整頓はいたってやかましく、着物はチャンとたたんで白布に包み棚の上にキチンと並べておかねぱなりません。夜具のたたみ方にしても、少しでもゆがんでいたら上級生から注意されるほど厳格でした。

三度の食事に出される御飯は米の方が少ないくらいの麦飯で、おかずはきわめて粗末なものでした。いまのように栄養についてはあまり考えられておらず、ただ腹がふくれればそれでよい時代。肴は鯖一切れ、それに時々は牛肉もつく程度、朝は必ず味噌汁一杯はついていました。しかし食事の時間が正しいのと朝の起床と夜の就寝時間が正しいことや運動、勉強を規則正しく行なっていましたので、師範生は皆ぶくぶく太って身体強健な者ばかりでした。生活を規則正しく保つことは、何よりの健康増進のもとということがわかります。御馳走とてもない寄宿舎生活のこのような実態が、そのことを如実に物語っています。

入学当初は二年、三年生の上級生が恐ろしく、食事のときにあまりたくさん食べたらにらまれはしないかとおそるおそる食事するので、いつも腹ペコでしょうがありません。そこで土曜日曜の外出日には、いの一番に飛び出して実家に帰り夢中で一週間分の食いだめをして寮に帰つた記憶があります。それも二年生、三年生と進むにつれ遠慮なく食べるようになり、その頃は随分肥ったものです。おやつは毎週金曜日の午後渡っていましたが、それも色の黒い黒砂糖を混ぜたアンパンでした。これが私達師範生の一番の楽しみで、そのほかの六日間はまったく菓子は渡りませんでした。

寄宿舎生活の規則による運営はみな上級生がこれに当たっておりました。炊事についていえば、炊事長がいて炊事当番は材料の注意から煮炊き食後の食器の洗いかたづけまで分担します。この当番は室回しになっていました。室長は三年生がなっていました。舎監はせいぜい外出の帳簿の点検ぐらいで全部生徒の自治により一糸乱れずうまく運営されていたと思います。生徒は民主主義とか自治とかをやかましく申したてないで、自分達で静かに整然と規則を守り自治的自発的に管理してやっておりました。一人でも寄宿舎の規則を犯すものがあったら、上級生が承知しません。夜会合して下級生を呼び出し訓戒したものでした。福岡師範には年頃の男女生徒が居ましたが、今のように男女共学でなく七歳にして男女席を同じくせずの孔子の教えに従い学習も別教室、寄宿舎ももちろん別世帯でしたので、男女の変な関係等聞いたことも見たこともなくそれはそれは清潔な生活ぶりでした。年齢でいえば満十五歳から女子は三カ年間、男子は四カ年間でしたので今日の高等学校と少しも変わりません。十五歳から十八歳くらいの悪さざかりの者でも、教育薫陶のやり方一っではこのように立派に躾けられるものであります。

戦後日本の文化、文明はおそろしく進み、昔は歩いていたものが、現在では自動車、飛行機、汽車、電車等々、また都会の夜は昼を欺かんばかり電気がついているのに、青少年の堕落ぶりはひどいもので毎日の新聞を賑わしている姿は見られたものではありません。これはいったいどこに原因するかをつきつめて見ますと、私は小学、中学校の大切な義務教育期間の徳育の不徹底と申したいのであります。そしてその根本をつきつめると学芸大学という何とも知れない学校名のもとに再出発した教員養成機関のなまぬるさ、不徹底さのせいと思うのであります。誰がいっ頃から学芸大学などと命名したものか、なぜ教育者の養成機関ならば教育大学又は師範大学としなかったのか。

私の師範学校生徒時代でも、男性で師範学校に入るのを卑下し、本心は実業学校に入りたいのだが官費で学費が要らないだけの理由でいやいやながら師範に来た人の例を二、三聞いたことがあります。戦後はそのようなことでわざわざ学芸大学などと名前をつけたのでしょうか。

まず何よりも自分は立派な教師になって教育に専念し、教育者の使命の貴さを認識して全身全霊をあげて子女の教育に従事しなければ本当の教育は行なわれないのであります。特に小学校児童は、ほんとうに神の子で、まことに純真そのものです。立派な教師が熱意込めて私欲を離れて教育に当たれば子供の躾は自由自在、人形を作るより徹底的にやれるものであることは私の永年にわたる小学校教育の体験から証明されます。これと反対に、もし教師の人となりが間違って、日本の少年児童の教育に自分の国をけなし、中国やソ連を美化してこれにおもねるような態度で教育に当たったらその結果はどうでしょう。小学校時代に植えつけられた精神は、中学校、高等学校に入学してもなおるものではありません。中学校、高等学校でどんなに努力しても、やきついた、曲がった訓育、徳育の傷はなかなかなおりません。日本人としての正しい立派な人づくりはまず小学校教育の根本的改善が必要で、その第一歩は小学校の先生の養成機関である学芸大学をとりあげ、この学芸大学のあり方を国家として根本的に樹て直すことが先決問題と考えます。

小学校下級学年の間に、立派に日本国民の魂は植えつけられると考えます。しかし、これには今一つ現在の母親の再教育も並び行なわないと、どんなに学校で子供の徳育に力をつくしても、家庭に帰って母親が正しい教育や躾をしなかったら、これはちょうど底の抜けた器に水を盛るようなものでいっこう効果は上がりません。小学校では母の会を作って子供と同時に母親の教育もする。かくて現在の小学校男女児童が成長して大人となった時代にはまた、明治天皇の御代のように隆々たる日本が期待されると思います。

私は明治三十五年師範学校を卒業いたしましたが、その頃の小学校教師で俸給の多少や賞与金の多寡につき不平をいうような先生がいると、あの人は教育者の風上にも置けぬと言ってけいべつされたものです。もっとも、その頃の教員の俸給は一般官吏や会社の従業員に比べるとかなり優遇されてはいましたが、教師自身は物質欲を離れ、生徒愛に燃えて教育に専念したものです。また、この頃師範学校に入学する者の家庭は、ある程度の財産持ちで生活には困らない程度の者が入学して来たようです。その点生活に追われていないことで、のん気に構えていたともいえます。

ここでふれておきたいのは、現在の制度では学芸大学卒業生以外に一般の公私立大学を卒業して中学、高等学校の教員になる人も多数にのぼっております。これらの人にはその大学卒業後、教育大学に研修科みたいなものを置き、そこに入ってもらって半年か一年みっちり教育者としての人間陶冶と生徒の指導法や教授法を修得させ、試験のうえ採用するようにしたら、優れた教員が出来るのではないでしょうか。とにかく現在のようなありさまでは日本の将来が心配でなりませんが、これは私の取り越し苦労でしょうか。

1-9 試験の最中に非常ラッパ

私が福岡師範生徒時代で今だに忘れえない苦笑するような記憶が二つあります。
その一つは学期試験の真最中に、夜中の午前三時非常ラッパに叩き起こされて千代の松原まで駆け足行軍させられたことです。師範学校生徒は非常の場合に備え、服装一揃い身近に整頓しておくのが規則になっていますので、当日もチャンと揃えて寝(やす)みました。

午前三時頃、突如聞えて来るラッパに「スワ、火災か」と、早速服装を整え前庭に出て見ると、あにはからんやこれから千代の松原まで駆け足行軍とのこと。私たちの頭のなかは、今日は化学の試験のある日。何とか一生懸命化学の公式を暗記して床についたのに、これには閉口いたしました。でも走らねば退学になるかも知れないので、格好だけはニコニコ顔で千代の松原まで往復駆け足、そして洗面、食事というわけです。ところが走ることだけでくたびれてしまって、せっかく一生懸命覚えていた公式はほとんど忘れてしまう始末。

いよいよ化学の試験の時間が来て、若い先生が問題用紙を配られます。そこでたまりかねて年長者の誰かが「今日は頭がボケてしまっていますから試験はこの次の時間に願います」と申し入れましたが「出来なければ白紙を出したまえ」との一言に取りつくしまもなく泣く泣く受験したことを憶えています。

この一事でも、昔の師範学校がいかにきびしい訓練をしていたかがわかります。しかしよく考えてみると、大切な神の子を預かる重大な責任のある教育者を養成する機関ですから、これくらいきびしくして人づくりをしておかないと、人を感化させるだけの人物は出来ないはずです。しかも荒戸町から千代の松原の往復といえば三里(十二キロメートル)はありましょうか。今の学生は遠足とか行軍はまったく駄目。バス遠足、汽車旅行で歩くのはほんの僅か。足の訓練が足りません。歩くということは何よりも健康の基ですから、たとえ乗物はあってもなるべく歩くのが、特に小柄な日本人には必要ではないでしょうか。

いま一つの強い思い出は三年の後期、半年間付属小学校に教授法の実習に教生として出向いているときのことです。

私は付属の高等小学校三年の組に配属され外国地理の担当をさせられました。ある日地理の受持ちの訓導である釜瀬新平先生から私の地理の授業を参観いただき、批評を仰ぐことになりました。釜瀬先生は地理科のベテランの先生だったのです。教材は印度の物産と、印度の首府その他の都市についてであります。

そこで教壇に立つ十日も前から教案を練り印度の人口から物産、都市のこと全部頭に入れてこれなら大丈夫と考えていよいよ先生の参観を仰ぎました。黒板に大きな印度の地図を掛けて地図を指す一間(約一・八メートル)もあるような長い竿を持って教壇に立ちました。ところがどこからどう間違ったのか、教壇に上がると同時に、今まで立派に覚えていたはずの印度の地理はまったく忘れてしまい人口とか物産など一つとして出て来ません。 私は泣くに泣かれずほうほうの体で、長い竿を持って教壇の上を右往左往するばかりだったそうです。自分は夢中ですからどんな格好をしていたかよく覚えていないわけです。冷汗をかきながらやっと授業を終り、とにかく実地授業を参観していただいたのですから釜瀬先生の御批評を願いましたところ、先生日く「今日の授業は弁慶が長いなぎなたを持ってうろうろしているのにそっくり」と唯一言。あとは何も申されません。私は口惜しくてなりませんでした。

最初はこんな失敗もありましたが経験を積むにつれて生徒の扱いもうまくなり、ときには面白いこともいって生徒を喜ばせるようなゆとりも出て来ました。たしか実地授業の点数は九十点は貰ったと思います。しかし、半年間も付属小学校の実地授業にたずさわるのは容易ではありません。毎日毎日勤務の状況を批評され、この実地授業の成績が良くないと絶対に卒業させてくれません。我ながらよく頑張ったもので、優秀な模範訓導からみっちり仕込まれて段々先生らしくなり、半年間の教生生活を終えて無事卒業いたしました。

1-10 最初は便所掃除を教える

明治三十五年三月二十五日、福岡県立師範学校を卒業し、その翌月四月十日付けで福岡県鞍手郡直方高等小学校訓導を拝命しました。
だいたいが師範学校卒業の訓導が少いのに、田川、嘉穂、鞍手方面には師範卒の先生の配置がほとんどないくらいで、まともな正訓導は少なく、雇いとか検定試験に合格しただけの先生が大部分でした。師範卒の女子訓導で直方高等小学校に配属されたのは、私と田中やすさんとの二人だったのです。ほかに田川郡後藤寺小学校に清松さんという方が赴任されましたが、これが師範卒の女子正訓導配置の始まりと聞いております。私は当時やっと十九歳(数え年)になったばかりで世間のことはよくわからず、ただ県学務課の指令のままに赴任したものです。

ところが、この頃の直方は炭坑の一番景気のよい時代。日清戦争は勝利のうちに終って日本の興隆とともに産業は起こり、船でも汽車でもみな石炭を使っているものですから、いくら掘っても足りないくらい石炭は売れました。
直方でも貝島太助氏一家の豪勢振りは、まるで昔の一国の殿様扱いでした。
私は直方町の資産家で質屋を営んでおられた山本さんの離れを借り、そこに下宿住まいすることにいたしました。当時の私の初任級は月俸十二円です。その頃米一俵(六十キロ)が五円でした。

直方の町そのものは活気にあふれ、新興の勢いに燃えていましたが、炭坑地だけあって何となく荒っぽいところがあり、私が一番困ったのは生徒が使う便所の不潔なことです。直方高等小学校は男女別々の組分けで、男子は男らしく女子は女らしく優しくする教育が施され、私は三年の女子組の担任になりました。ところが、男子、女子便所とも掃除の不行届きと使い方が悪いので足の踏み場もないほど汚れています。そこで、私は考えて炭坑地の教育はまず清潔整頓から手を着けねばいけないとし、担任の三年の生徒にまず便所をきれいにしようではないかと提唱、私自身が先頭になって全校生徒の便所の洗い掃除をし、きれいに拭きあげました。休み時間になると、私の組の生徒を手分けして一々便所の使い方の見張りに立たせ、汚した生徒には後始末をさせました。今考えると、たった十九歳で思いきったことをしたものと自分で感心しています。

若い頃は音楽が好きで、特に筑前琵琶に凝ったものです。当時、貝島炭坑の大工さんをしていた石村旭光先生に学校の休みのときよく教わったものです。最初は歌詞調の「龍田の紅葉、野田の藤・・・・・・・・・」などの簡単なものから段々程度の高いものまで習得して、特に「太田道潅」の曲は私のもっともおハコとするところでした。
郡視学の川島渕明先生はよく私を婦人会の研修会につれて行っては琵琶を語らせ、私も調子に乗って「そもそも太田道潅と申しけるは・・・・・・・・・」というような工合でやったものです。
川島先生の奥様や、ときの直方高等小学校の名校長といわれた有吉先生の御宅にも時々行って琵琶の指導をしました。

琵琶といえば、当時は随分流行したもので、私の実弟関次郎は特に名人で、語る方よりも奏でる方が素晴らしかったものです。なかでも「明智の近江の湖水渡り」の琵琶の弾奏は、聞きほれるほどでした。
直方高等小学校に赴任したての新米訓導の私を、どうやら一人前の教師として育てて下さったのは小畑伸校長先生でした。この先生は実に穏健な方で、職員を愛の精神で指導なさり、まさに円熟された人柄の方です。私もこのような校長先生に仕えて指導を受けることを心から感謝いたしておりました。しかし、この学校の職員はさすがに炭坑地のことなので、気が荒く、たびたび校長先生と論争をし、ときにはつかみかかって校長先生をひどい目にあわせることもありました。十九歳の若い教員の私は、師範学校時代真面目で誠実に自分の職務を尽くせとだけ訓練されていて、炭坑地の気の荒い職員の内状などわかるはずもありません。あんな立派な校長を、こんなにまでしていためつけなくてもよさそうなものをと同情はしても、手は出せずただオロオロするばかりでした。

その後、小畑先生は門司市の視学として栄転され、後任には有吉邦蔵先生が校長として赴任して来られました。この方は人格といい、実力といい、福岡県随一のやり手とされ、まだ年も若うございました。このような校長先生が来られては、職員の方も手も足も出ません。学校内は静かになり、職員もみんなそれぞれの仕事に励むようになりました。どういうものか、私はこの有吉校長先生にも可愛がられました。

私は高等小学校三年生の組担任から四年生へと持ち上がり、各教科の授業はもちろん体操もやっていました。持に音楽の授業が得意で、高等小学校の生徒三組を合併にして男生徒に唱歌の指導をしたものです。炭坑地の荒っぽい男子組三組も一緒にして二階の講堂に入れ、年若い十九歳か二十歳の女教師でよく指導したものと我ながら感心しています。これは、やはり師範学校時代厳しく教育されていたことの顕われだと思われます。十九歳、二十歳は数え年ですから、今でいえば高等学校三年生と同じ年頃です。

県庁から視学が来校されるとどういうわけか、有吉校長先生はいつも私の学級を自慢して参観させておられました。また川島視学が視察に来られても同様で、不思議に私は郡視学や校長から可愛がられる性質でした。したがって私も得意で、毎日気持ちよく働くほかに何の欲もなかったように思います。この頃の私たちは、特に待遇のことなど少しも考えたことはありません。ただただ立派な教員になり、少しでも生徒に喜んでもらうことが楽しみでしたし、そのように心掛けたものです。

月給は、一年半に一度くらいの割で昇給いたしております。初任給が先に述べましたとおり女教員で十二円。それから一年半たって一円増俸で十三円、三年経って十四円です。十四円くらいでは家庭に仕送りする余裕はありません。下宿料を差し引くと二、三円くらい残るのですが、二、三円家庭に送っても着物を作るときにまた加勢してもらわねばなりませんので同じことです。
とくに若い女が炭坑地の直方に永く勤めるのもどんなもんだろうということになり、家庭の方からのすすめもあって、直方高等小学校に三年五カ月勤めて草ケ江高等小学校に転任することになりました。

1-11 結婚の申込みを断わる

私が直方高等小学校に赴任して間もない頃のことでございます。当時私の実家は西新町にありまして、近くに東山という小高い山がありました。ここで、広島県人でながいことアメリカのロサンゼルスで働き相当の金を貯えて内地に帰って来た石田豊次郎という方が、炭坑事業を思い立ったのです。この方はまだ独身でありましたし、炭坑事業を始めることで父ともいろいろ接触があったようです。私が師範学校卒という関係で嫁にと申し込まれ、相談を受けたことがあります。ところが、師範学校は官費制ですからどうしても三年間は教員として勤めあげねばならぬことになっていました。私もよい縁だな一と一度は考えたのですが、結局は潔よく断わることにしました。

私のような不きりょうの女でも、若いときには貰ってくれるような人があったのかな一と今考えておかしくてなりません。
縁談は、これが最初で最後だったことになります。

1-12 培った教員魂

明治三十八年九月十二日付けで草ケ江高等小学校訓導拝命、俸給は月十五円です。
その頃の草ケ江高等小学校は直方とは違い、生徒の家庭は良し、父兄の教育程度も高い県下の優良校で、福岡師範学校の教生がよく見学に来ていました。この学校に赴任してからは、学校には、実家から通勤できるようになり、父も安心したようです。校長は広田波毅先生で、温厚な優しい人でございました。
間もなく福岡師範が男子師範と女子師範に分離されることになり、このとき女子師範は鳥飼の方に新しく校舎を建てて移ったのであります。私はどうしたわけか、両校分離の年、すなわち明治四十年三月十四日付けで男子師範の方、福岡県師範学校付属小学校の訓導を拝命しました。この小学校で、師範生徒の教生の指導にも当たることになったのです。卒業直前の師範生に教授法の実地指導をする役目なのです。

明治三十五、六年から四十五年頃までは、福岡師範の黄金時代といってよいでしょう。それに伴って付属小学校の方の教員陣容も多士済々で、若年の私を除いては主事以下堂々たる顔ぶれでございました。主事には最初森脇先生が座っておられましたが、この方がやめられたあと広島高等師範学校の先生をされていた中川直亮先生が着任されました。年は三十五、六歳位でしたでしょうか、若くて頭脳は明断、学識豊かで非常に明るい方でございました。これに配する各訓導もまた、若くて優れた方ばかり。首席訓導が北原先生、続いて立石仙六先生、山川敬行先生、織田信雄先生、木村哲郎先生、清水甚五先生等々。女子の訓導は、最初は山根ソマ先生と私の二人でしたが、中途で山根先生が退職されて私一人になりました。

当時は男子師範学校を本校、付属小学校はもちろん付属と称していましたが、その本校の教諭は当然男子ばかり。付属の方に女訓導として私一人。しかも年齢わずか二十二歳ですから、肩身せまく心細いものでした。このような優れた先生方の中に入れられて第一に感じたことは、自分の未熟さ、とりわけ教育に関する学識の不足、技術の劣ることであります。ここで私も大いに奮起いたしまして「よし、女性なりとも大いに勉強して男子訓導以上の力を持つようになってみせるぞ」と、朝は必ず五時には起き、登校前二時間は教育に関する書物を勉強いたしました。夜はたいてい十二時か午前一時までの勉強です。このようにして教育に関する書物をほとんど読みつくし、各教科の指導書、参考書などすべて目をとおして自信を持ち、教生の指導に当たられるよう若い意気で頑張ったものです。

私がその後の生き方として一つのことに取り組んだら徹底的に追究する習慣―というより、性格を備えたとすれば、この青春の時代すなわち付属小学校時代のはげしい研究修業で培われたといえます。
この頃の付属小学校は県下小学校教育の指導機関であるばかりでなく、全国でも指折りの名声を博していたのであります。よくいわれておりましたが、東は長野県、西は福岡県が小学校教育がもっとも進んでいたのです。
長野県と福岡県はお互いに競い合い、福岡県では長野県の研究成果を取り入れるように試み、一方長野県の方ではこれまた福岡県の優秀な先生を招待して初等教育研究の状況を学ぶなどなかなか活発なものでした。そのほか、鹿児島県など他の県からもよく招請されていました。

このように、当時の福岡県が教育県として、特に初等教育の分野で全国的に名声を馳せたのは、その頃の県下小学校教員が一つの教員魂とでもいえるものを持っていたからと思います。そしてこの教員魂はどこで培われたかといえば、優れた先生方が揃っていた師範学校で、しかも全寮制度のもと徹底した訓練によるものと確信いたします。
これは私の年来の主張ですが、小学校、中学校の教師たらんとする者は、人間のもっとも大切な時期の魂を創るのですから、何とも知れないような学芸大学とかいわないで教育大学、あるいは師範大学で結構、そして必ず全寮制度にして厳しい訓練を施す。その代りに学費、生活費は一切国の支給とし、教員の俸給も一般会社より数段上にするくらいの思い切った政策が必要と思います。

このように男子師範付属小学校訓導を足かけ四年間勤めました。以前から好きだった琵琶も、この間はプッツリ止めて昼も夜も仕事、研究、読書の連続で、とにかく教育の道一筋に専念したのであります。このときの努力が、その後の私の一生を大きく左右したと思います。

1-13 弟、関次郎病いに倒れる

人間のしあわせというものは、そうそうながく続くものではありません。私の楽しい教員生活の中で、思いがけない事件が起こったのです。それは、私が一番可愛がっていた実弟の関次郎が肺結核に倒れたことであります。 弟の関次郎は尋常小学校、高等小学校とも常に首席を占める成績だったことは、既に前に述べたとおりであります。高等小学校卒業後、中学修猷館に進み、ここでも常に学業は優秀でございました。また、特に剣道にすぐれ、その頃武藤先生といわれる剣道の先生がいらっしゃいましたが、その方の愛弟子で体格もガッチりしていたのであります。修猷館卒業後、海の男を志して東京の越中島にあった東京高等商船学校航海科に入学いたしました。この年、修猷館から四名がこの学校に入学していますが、弟は成績が優秀とかで横浜郵船会社の特待生となり、学費はその方で負担してくれていました。

ところが、忘れもしません明治四十二年十二月二十四日、商船学校の忘年会で得意の筑前琵琶を奏でている最中に突然喀血し、学校でも大騒ぎになり、私宅にもその旨電報が入りました。

家では関次郎が休暇で帰省して来るのを一日千秋の想いで待ちわびている最中のことだったので、父は気落ちしてとうとう寝込んでしまいました。
私は若くはあるし、汽車の旅にも馴れていましたので、早速付属の主事中川先生の許可を受けて独りで越中島まで病人を引取りに出かけました。病気も小康を得、少しおさまったとのことで先生方の助けをかりて帰省の用意を整えました。汽車も一等車に乗せ、寝(やす)んだまま、沢山の同窓生の見送りの中を東京駅発。私が看護人として、一緒に自宅に帰って来たのです。

これからが、私の苦労の始まりであります。
私ども、兄弟姉妹は幼い頃母を失ない、その後、父は後妻をめとりませんでした。家事の方は私どもの手を煩わしたり、親類や近所の人、または女中を傭ったりして何とかしのいで来ていましたが、母の死後十年、父はやっと後妻を入れ、その頃私どもには、異母弟妹になる子供が三人出来ておりました。明治時代の肺結核といえば、現在と違いもっとも金がかかり、しかもほとんど不治と見なされていたような"業病"です。家には小さい子が三人いましたし、うつりはしなかとの心配があり、義理の母に対する遠慮もあって、弟としても随分悩んでいたことと思います。私が学校から帰って来ると、いつもしょんぼりした青い顔で縁側に座っていました。家の中は暗くなるし、弟が可哀想で矢も楯もたまらぬ気持ちに追いこまれました。このままでは、とても弟の病気は癒りはしない。せっかく優秀な才能を持っている弟をもう一度再起させるには、思いきって転地療養をさせた方がよいと考えつきました。

弟を元気にしてやりたい一念でした。長姉のタミは、このとき既に保坂家に嫁していましたが幸い近くに居りましたので、父と姉と私と三人で相談し、私が月給の大部分をはたいて弟の治療費の面倒を見ようということになったのです。このような段取りをつけたのは、私が田隈小学校に転勤して二年目のことです。このときからながいこと弟の回復を祈りながら、私はその収入の大部分をつぎこんでゆく運命になったのでした。

1-14 生徒の連れ出しに家庭訪問

明治四十三年六月二十日付けで、私は付属小学校訓導から早良郡田隈小学校訓導に転任になりました。普通の常識からすれば、付属小学校の訓導から田舎の小学校の訓導に転任するのは都落ちの格下げと考えられます。私が心を動かしたのは新設校であること、農村の小学校の経験を味わいたいことと、もう一つは付属小学校訓導の田丸三次郎先生が校長になられるのにもう一人付属小学校から先生をつけてやらねばうまく行くまい、是非にという熱意にほだされてのことでした。したがって、私もむしろ自分から進んで転任することにしたわけです。二十六歳の血気ざかりでした。

ところが赴任してみて、びっくり仰天いたしました。付属小学校では生徒の服装は立派で家庭もよし、よく勉強する者ばかりです。大抵の覚悟はしていたっもりですが、頭で考えたことと実際は大違い。服装の悪いのは当時の農村ですからまあまあとして、農繁期には赤ちゃんを背負って学校に出て来る始末。出席率も非常に悪く、授業の始まる前に一々家庭訪問して生徒を連れ出して来るのも再々でした。また勉強することにまったく関心を持たない子供がクラスのうちに七、八人いましたので、これらの生徒のために廊下に一教室つくり特別指導をするなど、今まで知らなかった苦労をしたものです。しかし、校長の田丸先生が先頭に立って教育者として一生懸命頑張っておられるものですから、私も先生の片腕のつもりで大いに成績を上げねばと学芸会を特別にとりあげて大々的に催したり、村の女子青年団を氏神様に集めて作法の稽古をしたり村全体の教育にまで手を拡げました。五十数年たった今日でも、その頃の教え子が中村先生、中村先生と慕って時々訪ねて来てくれます。皆それぞれ一人前になっていますが、昔の鼻たれ小僧時代のことを思い出し、懐しくてなりません。これが教師冥利というものでしょうか。

この田隈小学校の教員時代も以前と同様、睡眠時間はせいぜい四時間か五時間ぐらいで、月給の上がることなどは毛頭頭になく、ただ働くだけでした。
一方、弟関次郎には私の月給の大部分を治療費として送らねばならぬ境遇で、まさに内外ともに多事多難の苦難を味わいました。これが天から授かった自分の運命と諦めて、月給が渡されると喜んでそのうちの二、三円を自分の手許に残し、あとは全部弟の療養先に送金したものです。

1-15 有田高小を進学校に

こうして田隈小学校に勤務すること四年半、大正三年一月今度は早良郡有田高等小学校に転任になりました。俸給は二十二円で、この額は当時三十歳くらいの平訓導としては破格の高給だったそうです。そのかわり、高等小学校で女子一年生、二年生合同の複式学級七十二名をひとりで担当し、国語、数学、理科、地理、歴史、図画、習字、おまけに体操まで全教科を一人で教えねばなりませんでした。

この有田高等小学校に赴任するときに、ときの郡視学浦江先生から特に私に注文がつけられたのであります。それは「実は早良郡に高等小学校が三校ある。西新校と草ケ江校と有田校と。草ケ江校はサラリーマン家庭の子供が多く教育程度も高い。男子は修猷館、女子は県立福岡高女によく合格して入学率もよい。ところが、有田校の方は農家の子弟が主であまり勉強もせず、入学試験を受けてもさっぱり合格しないので弱っている。あなたが有田校へ赴任したら、入学試験にもどんどん合格者を出すように努力してくれ」とのことでした。

その頃の有田高等小学校は高小だけの独立の学校で、教員組織もいたって小じんまりしたものでした。校長は福田丑之助先生で、地元の生まれ。碁がいたってお好きな方で、村会議員さんとよく碁盤を囲んでおられました。まことにゆったりとした好人物でした。教頭は井上忍先生で羽根戸の地主さん。のびのびとした明朗な方。そのほかに、訓導の先生が四人と、別に裁縫に若い女の先生が一人。まったく家族的なふんいきでお互い気心はわかっておるし、思う存分のことが実行できる有難い職場でした。

この有田高等小学校の教育における想い出を二、三述べてみましょう。
その一は、前にも述べた一、二年の複式学級のやり方です。これは一年生が理科の時間は、二年生は習字。二年生が国語の時間は、一年生は図画という風に、どちらかは自習ができるように組み合わせて一、二年一人の先生で授業を進めて行くわけです。ただ体操と音楽だけは教室の関係でそうもゆきませんので、これだけは、一、二年合併で同じ材料で指導していました。

その二は、秋の公開運動会のことであります。この運動会のために、四月には既に計画を樹てました。歩調練習と飛箱、中飛びなど運動場に平素から設備しておき、生徒は朝掃除が済むとおしやべりをしないで早速運動場でそれぞれの練習をするのです。秋の本運動会のときは生徒がこのように興味を持って自分から進んで鍛えた技を公開するのですから美事なもので、私が号令一つかけると一糸乱れず歩調をとって七十二人の生徒が行進するさまは団体行動の極致といっても過言ではないくらいでした。体操にしろ、飛箱にしろ、中飛びにしろ、自由自在にできるものですから、見物席の父兄や一般有志の方々からまるで女の幼年学校(軍人養成の学校で士官学校に入る少年を教育する学校)のようだと評されたものです。

生徒は教師の熱心と適切な計画さえあればどのようにも育ってくれるもので、私のように足の悪い女教師でも専門の体操の先生がはだしになるくらいやればやれるものとの自信をっけました。このように成績の上がったときの満足感はとても金に替えがたいものがあるもので、これが本当の教育者の喜びではないでしょうか。

その三は、中学校に進学する生徒の補習授業のことであります。その頃は、男は修猷館、女は県立福岡高等女学校を希望する生徒が大部分であります。私は赴任のとき、すでに郡視学の浦江先生から言い渡されていることでもあり、意地でも修猷館や県立高女にパスさせて見せねばと決心いたしました。とにかく教師の熱意と努力さえあればできないはずはないと気負い込み、結局それでいつの間にか補習授業は全部私が背負い込むような形になってしまいました。

私はこのとき、補習授業を一般補習と特別補習の二段階に分けて実施しました。
まず一般補習について述べますと、これは放課後掃除が済むと進学希望者全員を集めて学校の教室で補習授業を始めます。
時間割は

第一回目補習、午后三時-六時
夕食(持参の弁当)休憩
第二回目補習、午后七時-九時

一般の補習を受ける生徒はこれで終り、もうそのころは暗くなっているので提灯をとぼして家路につくというありさまです。

男女合同の補習クラスで、科目は主として数学、国語の二科目で特に数学に重点をおいて授業しました。私は数学が得意な教科でしたからいろいろと研究し、高等小学校の数学を種類別に分類して手の混んだ問題は図解するやら特別の解説を加えて指導したものですから、難かしい問題でもよく解けるようになりました。計算問題などは浴びせかけるように宿題を課して自習させ、よく出来た場合はほめるものですから皆どんどん成績が上がり、大体県立中学や県立高女にうかる程度に力もつきました。

特別補習の方は、生徒の父兄から特別の依頼を受けてそれ以上の補習をすることです。そのころ男生徒四名、女生徒四名くらいだったと思いますが、これらの生徒を私の下宿先の家有田村のさるお寺1に二間借りてそこに泊らせ、夜学のまた夜学を強行してどうでもこうでも合格できるまで鍛い上げるやり方です。
この特別に預っている男女八人の生徒は、学校の一般補習が終るとみんな宿であるお寺に引き揚げ、それからまた勉強に入るのです。たいてい夜中の十二時頃までやりましたが、どうかすると朝方鶏の鳴き声を聞き、うろたえて床につかせたこともありました。

このように激しい補習をいたしましたが、誰一人不平を言う者もなく、また父兄の方も預けた以上は私に一任で、その結果県立中学にも全員合格する好成績をおさめました。かくして草ケ江校との格差もなくなり、有田校は一躍有名になったのであります。
以上のように、補習時間は毎日一般補習生で五時間、私の下宿先に泊っている特別補習生は七時間と激しいものでしたが、校長は当たり前と考えておられて特別の手当もなし月給二十四円、それだけでございました。
父兄の方も昔のこととて呑気なもので、教師に謝礼など考えているようすもなく、私自身も謝礼や手当て目当てにやっているのでもありませんでした。浦江先生の期待の言葉に励まされ、教師としての意地からやっていることですから、生徒がみんな受験に合格さえしてくれればそれでよかったのです。三十歳から三十五、六歳の働き盛りのころとはいえ、自分ながらよく頑張ったものだと思っています。

この補習について、今一つ思い出話があります。ある冬の夜のことです。風が強く、雪は降るし、まことに寒い日でした。張りきっている私はその日も平常通り夜の補習を行なうと申し渡したところ、三、四人の男生徒が「先生、今晩は特別寒いので補習はやめにして帰らせてください」とのこと。私はムッとしましたので「よろしい。帰ってもよい。そのかわり修猷館に入学出来なくとも私は責任は負いませんよ」とつっぱねました。そのため、生徒たちは帰ることをやめて、元気よく夜七時からの補習にも参加しました。

ところが数学の解説の真っ最中、黒い覆面頭巾をかぶった男が廊下から声をかけるので、いまごろ誰だろうと外に出て見てびっくりしました。視学の浦江先生の巡視だったのです。宿直の男の先生は、寒いためか、早く床に入ってやすんでおられたので黙って入って来たとのことでした。
浦江先生は頭巾をぬぎながら「今日、原小学校の青年学級を視察に行ったら、寒いので皆勉強は中止して火にあたっておしゃべりしていた。今から壱岐小学校の青年団を視察に行くところだが、その途中立寄ってみたのです。有田高小の生徒はなかなか元気者ばかりじゃ。これでは県立中学に合格することうけあい。しっかり頑張り給え」と激励されて去られました。私も心中大いに感激するし、生徒の勉強も一段と熱が入ったようでした。

補習授業も一々手当てを貰わねばやらないという小遣銭とりのやり方では、実力はつかないと思います。補習を担当した以上、責任をもって是が非でも合格させてみせる。また合格させねば教師たるものの面目丸つぶれという意地と情熱が大切で、生徒愛よりほとばしる熱意が最後の栄冠を得るものだと私の体験からいえます。
私は個人的には弟の療養費を貢いでやらねばならず、当時の俸給二十四円のうちから二十二円五十銭を割き、私の手許にはわずか一円五十銭しか残りません。このころの二十四円は、女教員としては最高俸で、事情を知らない人は中村先生はさぞ貯金も多いことだろうといっていたそうです。

1-16 教員の待遇激変

大正九年一月十六日付けで、私は福岡県三井郡松崎実業女学校教諭に転任を命ぜられ、家庭科主任として赴任いたしました。
この松崎実業女学校の校長先生は私の師範学校時代の同窓生山田かめさんの厳父だった関係で、ここでも可愛がられ、幸わせな教員生活を送ることができました。
このころのことで特に強く記憶に残っていることは、教員の待遇の激変であります。
大正三年に勃発した第一次世界大戦の影響で日本は好景気となり、ドルはどんどん流れ込み、会社、銀行等の好況は目ざましいものがありました。それにつれて、会社員、銀行員の給料もずんずん上がり、物価もこれに劣らず上がるというありさま。ところが、ここで一番困るのが月給の少ない小学校の教員です。

しかし、このころの教員は厳格な師範学校教育を受けているし、第一教師たる者が俸給の多寡を云々するとは教育者の風上にも置けぬと考えていた時代、つまり武士は喰わねど高楊子式の風潮の強い時代ですから、誰一人待遇云々という人もなく、ただ我慢して黙々と懸命に生徒のため、愛の教育に専念いたしておりました。
しかし、世の中はめくらばかりではありません。政府当局ならびに一般の世論も、学校の先生方の待遇を改善せねばということになり、大正七年ごろから九年ごろにかけて先生方の増俸が急ぎ実施されるようになりました。小学校、中学校の教員に年功加俸の制度が出来たのもこのときからと思います。私の手もとにある当時の辞令を拾って見ますと、次のようになります。

一、大正七年五月二十二日  有田高等小学校訓導中村ハル 自今月俸二十九円
一、大正七年九月三十日  有田高等小学校訓導中村ハル  自今年功加俸年額四十八円
一、大正九年十月一日  松崎実業女学校教諭中村ハル  自今年功加俸年額六十円
一、大正九年十二月十五日  松崎実業女学校教諭中村ハル  自今月俸八十二円
一、大正九年十二月十六日  松崎実業女学校教諭中村ハル  自今年功加俸年額百八円