学校法人中村学園

学園祖 中村ハル先生の想いと記録

学園祖 中村ハル自伝
努力の上に花が咲く

第3部 
努力は涙とともに

3-1 新しい世界を神戸に求めて

震災後一応横浜に帰り、以前と同じく岡野尋常高等小学校の教員として勤務しました。しかし、校舎はいつ建つか見通しがっかず、樹の下を借りたりしての勉強。先生方のなかには亡くなられた方も多く、とにかく授業も思うように手につきません。それでも、私が横浜市民なればどうでもこうでも学校が復興するまでがんばらねばならないところですが、もともと私が横浜に赴任して来た大きな目的の一つは、中央に出て料理と家事科の勉強を進めたいことにありましたから、この関東大震災は私の修業計画を大きく狂わせてしまいました。
といって、みすみす福岡に帰る気にもなれず困っていたときに、また新しい道が拓けて来たのです。

横浜市体育課に勤務されていた今井学治先生が、震災後、神戸市兵庫尋常高等小学校に校長として転任されました。今井先生は以前福岡県男子師範学校の体操の教諭をしていられた関係で、私ともじっ懇の間柄でした。この今井先生が神戸に着任されて、ときの神戸市教育課長横尾繁六先生に私のことを詳しく話されたとみえて、神戸市から赴任方の打診がありました。私自身としましても、すでに横浜在職三年以上にもなり、東京方面の名流料理だけはだいたい学んだことだし、今度は京都、大阪、神戸方面でさらに料理の勉強をしたいと念願していましたので、校長の久芳先生に事の次第を話し相談しました。久芳先生もこれを諒とされ、特別の計らいで、神戸市に赴任することが決定したのです。

このとき、横浜市教育課では震災後の困難な時期にも拘わらず、特別の扱いで月俸を百円に増俸してくれましたので、神戸市の方ではさらに一級増俸して月俸百十円で迎えてくださいました。
そのころ、小学校の女教員で月給百十円というのは東京にもなく、私は全国一の高給取りになったわけです。一般に、神戸市は外国貿易港で財政も豊かだったのでしょう、教師の待遇はよかったのです。それにしても、よほど今井学治先生の説明がよかったのではないかと想像されますし、また教育課長横尾先生の英断には感謝のほかありません。

こうして大正十四年四月一日、神戸市兵庫尋常高等小学校訓導として神戸に赴任、家庭科担任の教員として新しい活動に入りました。
この学校にちょうど一年間勤務しているうちに、教育課長横尾先生の新しい構想に基づき、神戸市に全国初めて男子高等小学校、女子高等小学校を尋常小学校と分離して設置することになり、男子の方は兵庫男子高等小学校、女子の方は明親女子高等小学校となり、私は明親女子高等小学校の方に配属されました。

3-2 独自の家事参考書を出版

明親女子高等小学校の初代校長は藤本先生といわれる方で、姫路師範学校の卒業です。女子の先生方は、家庭科裁縫に東京の渡辺裁縫学校や共立専門学校の卒業生の方がいましたが、あとでは皆共立専門学校卒業生だけになりました。食物の方は私がひとりで担当しました。私はそのほか、看護法、衛生、一般家事などをいま一人若い女の先生を助手につけて受け持ちました。

この神戸時代が、四十歳を少し越したくらいで一番よい年ごろだし、実際私の一生のうち教員としては最も充実感を味わった「花の季節」だったと思います。それらの思い出を記録に残しておきましょう。
この神戸時代も横浜のときと同様、夜や日曜日、長期休暇を利用して料理研究を続けました。
そのころ勉強の場所として指導していただいた個所は、洋食の部門では(1)神戸のオリエンタルホテル(2)京都ホテル(3)みやこホテルなどであります。

日本料理では(1)大阪の鶴屋、(2)京都松原の精進料理、(3)特殊の料理では祇園の芋棒等々でありますが、なかでも大阪の鶴屋には一番熱心に通ったものです。

中華料理は(1)神戸市南京町にあった有名中華料理店、(2)京都の広東料理店や中華鍋料理店等等で、横浜とはまた変わった趣向の料理研究ができました。

次に、私が教員としていささか誇り得る業績は、独自の家事科の教師用参考書を編さんし、刊行したことであります。 私の主義とする家事科の指導のあり方は、文部省編さんの教師用指導書を使っていてはうまくいきません。そこで独自の教師用参考書と生徒の学習帳を出版したのです。

教師用の参考書は「学校を生活の場所としたる家事教育」と題したB5版三一九頁のものでした。
そのころ高等小学校の家事科の指導は理論はよく組み込まれていましたが、家庭で実際に行なうことと、ピッタリ合ってないことが多いようでした。これでは何のための家事科かということになります。そこで、私としては学校における家事科での指導と、家庭における実際とがピッタリ合うように学校を一つの大きな家庭と見立て、家庭で実際やるように学校において掃除にしろ、整頓にしろ、看護法にしろ、家庭と思って常々作業をさせる方針をとりました。
これが家事科指導における私の主義主張であります。

従って、例えば授業で清潔整頓を教わったら、校舎内外の掃除も自分の家をきれいにするのと同じ気持ちで隅から隅まできれいに掃除をする。便所でも、教室でも、廊下でも、壁でも傷めないように丁寧に、しかもきれいにする。また洗濯法を教わったら、学校のカーテンでも宿直室のシーツでも、テーブルクロスでも何でも、汚れているものは自分の家庭のものと考えてきれいに洗濯しアイロンをかけるのです。

3-3 野菜も自給自足

食物の調理についても、自分の家庭でやっている考えで実習させる。野菜でも一から十まで店先の野菜を買わないですむ工夫をして、空地があったら耕して種子を蒔き、朝の味噌汁の具になるくらいの野菜は自分で栽培する習慣をつける必要があります。
この野菜栽培の知識は家事科教育の一環でもありますが、また女性として植物や野菜の栽培は趣味としても味のあるものだし、第一自分で野菜を作ってみると農家の苦労もわかってきて、野菜を粗末にしないようになり、家庭経済上非常に益することにもなるのです。

明親女子高等小学校における野菜栽培のことについては、ほほえましい思い出がありますので、もう少し書き綴りましょう。
私の家事科指導の趣旨から野菜栽培を是非実行しなければと思いたち、さっそく校長先生にお願いして運動場の片隅を拝借、つるはし、唐鍬を揃えてりっぱな畑に耕しました。最初は夏野菜から始めました。キュウリ・カボチャ・ナス・トマト・青菜などです。

肥料は今日のように化学肥料はあまりありませんので、もっぱら下肥を使うことにし、肥柄杓や肥桶の用意をしました。しかし、皆都会の生徒ばかりですから下肥など扱った者は一人もいません。教師たる私が率先垂範で下肥を汲み出し、野菜にかけて見せます。すると数人の生徒は、鼻をつまんで逃げ出してしまいました。私がわざといやな顔もしないで、どんどんかけて行きますとまた数人逃げ出すといったぐあいでした。

次の割烹の時間のまず最初に「先生が下肥をかけるのを見て、鼻をつまんで逃げ出した人には栽培した野菜は使わせませんよ。その代わりに店先にさらしてあるしなびた古い野菜を使ってもらう。先生と協力して野菜作りに精出した人には畑にできた新鮮なつやつやした野菜で実習してもらうことにするから、そのときになって不平を言っても知りませんよ」と約束しました。逃げ出した生徒も、これでいくらかこたえたらしい。だんだん日がたって、ナスに美しい実が下がり、トマトが可愛い実をつけ初めると、生徒は「まあかわいい」とか「美しい」とか喜びの声をあげて、畑に入ってきては、草をとったり、ついには野菜の手入れなどを手伝い始めました。

さて、いよいよ夏野菜を使う料理の時間が参りました。私は畑でとれたつやつやしたナスと、店から買って来たしなびたナスを並べて「野菜作りから逃げた人は、このしなびたナスを使いなさい。野菜作りを手伝った人は自分たちで作ったものを使ってよろしい」と材料を渡したものですから、野菜作りにそっぽを向いていた生徒もついに詫びを入れ、それからというものはわれもわれもと野菜作りに精を出し、下肥えも厭がらずかけるし、除草や耕し作業も進んでやるようになりました。これらの作業は放課後課外活動として私の指導の下にやるのです。
高等小学校の生徒はかわいいもので、教師の指導一つで良い方に向うものです。

校長の藤本先生も、畑を御覧になってびっくりなさいました。運動場の片隅のやせ地に、専門の農家でさえ顔負けするような野菜がりっぱに育っているのですから・・・・・・。熱意ひとつで、こんなにもできるものかと感心しておられました。 このころは全国各地から明親女子高等小学校における家事教育の実状を参観に来られる方々が多かったのですが、その方々にこの野菜栽培の模様をお目にかけると、その出来栄えに皆感嘆されるのでした。

このことが県の学務課の方々の耳に入り、部長や課長がわざわざ見学に来られたことがあります。そして申されるに「県立の農学校は専門でありながら、野菜栽培というとすぐ温室、温室といってろくなものは作りきらん。明親女子高等小学校では素人の女生徒の手で運動場の片隅を耕している。みんなの熱意ひとつで、太陽の熱はこんなに見事な野菜を与えてくれる。

「農学校は、まるでなつとらん」といわれて帰られました。おかげで、私も鼻を高くしたものです。 このような実績がだんだん評判になり、確かに神戸市における家事教育は実生活に即したやり方であるとのことで参観者は引きもきらず、私も神戸市の教育のため面目を施したつもりでおりました。

次に私がいろいろと考えたのは、家事科の教具のことであります。教具を整備するには、次の二通りの手段によるべきであると考えました。

①公費で揃えてもらうもの
②教師や先徒の創意と努力によって自主的に自分たちで揃えるもの

家事科のなかの衣・食・住・看護・衛生・育児・家庭経済の各部門のうち①の公費によるものは何か②の教師生徒が自分たちで揃えるのは何々がよいか、徹底的に研究分類して、たとえば教師や生徒の手に負えないミシン・アイロン・鍋・釜・コンロ・庖丁などは学校で揃えてもらう。しかし、その他の教師生徒の創意、工夫、収集努力によった方が第一勉強にもなるような標本や簡単な模型、資料等は自分たちで揃えることにしました。私は収集するのに特別強い趣味を持っていたものですから、教室いっぱいこれらの標本や模型を集めたものです。

神戸の鐘紡工場には綿糸、綿布の製作工程模型を作ってもらい、京都の西陣織工場を訪ねては実物標本を分けてもらい、大阪の淀川地区の各種工場を訪ねては家事に関する種々の標本を寄贈していただきました。淀川地区は随分広い地域に工場があちこちとありましたが、煙突目あてに足の悪い私が標本の集まるのを唯一の楽しみにして一日中よく歩いたものです。

3-4 地方で初めての全国女教員大会

小学校女教員会全国大会を神戸市で引受け、私はその運営責任者として大いに活躍しましたが、これも大きな思い出になっています。神戸市の小学校女教員は二〇〇人ほどおられたかと思いますが、立派でそうそうたる先生が揃っていられました。そのなかで、私は最高の待遇を受け、赴任後一年半にして月俸二一〇円になりました。これは教頭に匹敵する待遇で、市教育課長横尾先生も大いに目をかけてくださったからでありましょう。そのようなことで、いつの間にか女教員の指導的立場に立たされ、ついに兵庫県女教員会会長に祭り上げられました。県女教員会議があるときはいつも議長をつとめねばなりませんが、割合いうまくやっていたとみえて、この会議の主宰振りを傍聴された市の課長さんから「中村先生の議長振りは県会の議長よりましだ」と冷やかされたことを覚えています。

このころ、教育界の組織されたものとして帝国教育会というのがありました。本部は東京です。小学校の男女教員はこの帝国教育会の研究発表会に全国から集まり、そこで研究の発表討論を行なうわけです。小学校女教員会はいつも東京で、しかも夏休みを利用して開催されていました。私が神戸に赴任してからは、兵庫県下の若いそうそうたる女子教員に研究課題を出し、神戸市でその発表会を持ち、なかで最も優秀と認められた先生二十人ばかりを選んで私が引率、中央の全国女教員会に出席するのです。研究発表では、東京対裡尺横浜対神一尺大阪対神戸といったような組み合わせで研究討論を重ねました。神戸はなかなか重きをなしていたのであります。

昭和三年の小学校全国女教員会のときだったと思います。それまでこの大会は東京開催が慣例になっていましたが、地方開催もときには変化があってよくはないかとの意見が出され、大阪はどうだろうとの提案がなされました。ところが大阪の代表の方から、来年の大会は請け合いかねますと断わられましたので、私は決断してそれでは神戸が引き受けましょうと約束しました。

全国大会を地方で開催することは大変なことです。神戸市の面子もあることですので、つまらぬ大会にしてはなりません。さっそく市女教員の幹部七、八人を選んで、幾回となく会合を重ね、どのように準備を進めたらよいかを研究しました。
まず第一番に資金を用意しなければと、東京、大阪方面の資産家、実業家の別荘地須磨、明石、舞子の浜に手分けしておもむき、寄付金を集めてまわりました。 教育課長の横尾先生も、地方で開催される第一回目の大会が神戸市で行なわれるということで「これはぐずぐずしてはおれない。東京や大阪をアッといわせるくらいにやろうではないか」と大張り切りで、私たちもおかげで活気づきました。

大会では、帝国教育会から理事の野口先生が出席され、帝国教育会からの出題、各県からの協議題について活発な討論、討議が行なわれました。
また現場の研究授業も見てもらおうと、神戸市内の三、四校を指定、そうそうたる女の先生の実地授業を行ない、それの批評会も持ちました。

大会後の懇親会もなかなか豪華なものでした。第一に神戸市長から宝来丸という船を出してもらって大阪湾を遊覧、船上で市長招待のお茶の会を催す趣向です。二番目は私どもが集めた寄付金で全員を宝塚の歌劇に招待しました。そのほか、神戸港、造船所の見学、宿舎の手配など至れり尽くせりのもてなしをしましたので、全国の小学校の幹部の女教員の方々も大いに満足されるし、同時に兵庫県女教員会、神戸市女教員会の名声も大いに上がったのであります。

それとともに、今度は神戸市家庭科研究部編集の「学校を生活の場所としたる家事教育」はとたんに教育界の脚光を浴び、中央の帝国教育会の方で出版の世話まで引き受けようということになりました。
この参考書の編集は神戸市家庭科研究部となっていますが、もともとは明親女子高等小学校における私の家事教育の実情を著書にしたものです。これと生徒が用いる学習帳は各地から注文が殺到するようになりました。その範囲も関西を中心にして、東は名古屋方面から、西は広島、岡山方面にまで及びました。

文部省の指導書があるのに、これだけの広範囲にわたり私が責任を持って出版した教師用参考書、生徒用学習帳が採用されたことはまことにうれしい限りでした。このため私は関西一円、四国、中国と家庭科講師として随分招かれたりしました。

3-5 すっかり上がったホテルの食事

神戸時代、私が女性なるがゆえに笑うに笑えない、自分で苦笑するような思い出があります。昭和四年十月一日付けで、私は兵庫県視学委員を拝命したのです。視学委員になって初めて私は県の学務部長や課長さん、それに姫路師範や御影師範学校長さんらといっしょに県下家庭科の指導視察に回りました。女性は私のほかにもう一人だけです。

さて、視察がひと通り済んで、神戸市のオリエンタルホテルで慰労会が持たれました。そのとき私は四十五歳でしたが、世間なれしないうぶなところもあったのです。宴会が始まり、オードヴル、スープと順序に従って料理が出ましたが、男性の偉い方々がずらりと並んでおられるなかに、女性はたった二人。恥ずかしくて恥ずかしくて食べる気持になれず、もじもじしているうち、料理はかってに出されてはさっさと引かれて行きます。オードヴルが引かれる。スープも口をつけないうちに引かれる。魚・肉皿もナイフ、フォークをちょっとつけただけで下げられる。この間、男性の方々はおいしそうにパクパク食べておられるのがうらやましくてしょうがない。とうとう最後のデザート、コーヒーになってしまいました。

これで宴会はすんで解散。男性の方々は、さも満ち足りたように陽気に帰られる、ホテルから出て二人になってからの話がおもしろい。

「あなたひもじくないですか」
「ええ、おなかがすいてたまらない。このままではとても、今晩眠れそうにない」
「では、近くのうどん屋にでも寄って食べて帰りましょうか」

かくて話は決まり、うどん屋で素うどん一杯食べて、おなかをふとめて帰ったことがあります。
兵庫県の視学委員・家庭科の指導員ともあろう者が、洋式宴会の席上で料理によく手をつけきらないで、もじもじして上品ぶっていたそのころの私の心根がかわいくもあるし、やぼったくもあるし、おかしく思われてしょうがありません。
今から考えると、そのころの女性は、男性の前では一厘の値うちもないくらい弱い存在だったのでしょう。いま時の若い女性は男性の前でも堂々と振舞えるのでしょうが、昔の女性はだいたいこんなところだったかも知れません。
神戸における活躍振りが教育界で高く評価されたらしく、一時私を小学校長にしたらという話が視学さん方のなかで出たそうです。教育課長の横尾先生からも、あるときその話が出ました。

「もしそうなったら教員組織が大切だから、どんな教員を揃えたらよいかそろそろ心組みをしておくように、また校長となる場合の教育方針等考えて心構えを作っておくように」ということでした。ところがそのころ兵庫県では姫路師範の卒業生でいて教頭止まりでなかなか校長に昇進出来ない先生方が多く、この方面から女の校長に反対する声が上がって、このことは実現しないまま、やむを得ない事情のため郷里福岡にどうしても帰らなければならないことになりました。

3-6 郷里福岡へ帰る

私が四十七歳(数え年)で再び郷里福岡に帰って来るようになったことについては、私立九州高等女学校の創立者であった釜瀬新平初代校長の病死が大きく左右しております。釜瀬新平先生は前に述べたように地理の大家で、私が福岡師範学校生徒時代に親しく指導を受けた恩師です。

この因縁の深い釜瀬先生が亡くなられる一年前、ひょっこり明親高等小学校に参観に来られました。私の活動状況を知られてたいへん喜ばれて申されるには「これは相談だが、中村さん。ひとつ我が九州高等女学校に来て家庭科の指導を担当してくれんか」とのことです。私は九州高等女学校とはどんな学校か、そのころはまったく知りませんので、はっきりした返事も出来ず「私もいつまでも神戸にいるつもりはありません。いずれは故郷の福岡に帰らねばならぬと考えています。その節は御校に御世話になることと思います。よろしくお願いします」と申しあげておきました。このとき釜瀬先生は上京の途中神戸に立ち寄られたの.ですが、時間の余裕もあるようでしたので神戸牛の専門店みつわに御招待しました。先生も御満悦の様子で、牛肉の料理やスキヤキをつついておられました。夜行の神戸発で東京に発たれましたが、私は駅まで見送りに行きました。これが先生との最後のお別れになったのです。

その後、お礼状も来ねば何の音沙汰もありません。福岡に帰郷したついでに先生を尋ぬて行ってみますと、東京で発病されて帰宅されたまま御重病で回復もむずかしかろうとのこと。人間の因縁とはまことに異なもので、神戸で御会いしたのが不思議な縁だったなあと悲しく思われてなりませんでした。
その後間もなく、釜瀬先生が亡くなられたとの知らせに接しましたが、学校の都合で暇がとれず弔電を打ってはるか神戸の地から先生の御めい福を祈ったのであります。

この釜瀬先生が亡くなられたころは世の中一般が不景気のどん底にあえいでいる時代で、私立学校に入学して来る生徒も少なく、福岡県下の私立学校はどこも一様に苦労していたと聞いております。そこへもってきて、創立者である初代校長がなくなられるという二重の苦難に見舞われた九州高等女学校の窮状はどんなだったか大体の想像はっきます。
これを見かねて、釜瀬先生と親友の間柄であった安河内健児先生が福岡県視学の地位を退いてこの学校の態勢を立て直すべく二代目校長として就任なさる決心をされたとのことであります。

県視学といえば、当時教育界の目付役的存在で、私がかつて福岡県で小学校教員をしていた時代、県視学の安河内先生は切れ者のそうそうたる方であると聞いていました。その安河内先生が、釜瀬先生のあとにすわられるのですから、並々の覚悟ではなかったことがうかがわれます。

安河内先生は教員組織を新しく強化することを重視され、国語科には誰々、数学科には某々、地歴科は何先生との構想を持たれ、家庭科主任として私に是非就任してくれとのお頼みです。釜瀬先生との約束もあり、いずれは九州高女に御世話になる覚悟はしていたものの、そのころは神戸で最もはなやかに活躍している最中で未練もあり、そうたやすく神戸を離れたくもありません。しかも、昭和五年の六月には増俸して一挙に百六十円の月俸になることになっていました。それでしばらく待って下さいと再三、お断わりしたのですが、安河内先生の腹づもりでは、四月始めに一新した教員を勢揃いさせたい意向らしく、一向にこちらの言い分を聞いて下さる風もなく、電報を続けざまに打たれての矢の催促です。私の将来の都合、具体的にいえば恩給にしても六月以降に神戸を辞めればぐっと違ってくるのですが、恩になった方のことで無下にも断わられず、とうとう腹をきめて神戸市教育課に願い出て退職することにしました。

ここに、神戸市明親高等小学校訓導を最後に、明治三十五年四月以降二十八年間にわたる公立学校教員生活に別れを告げ、以後私立学校に関係するようになったのであります。そのときの辞令

昭和五年四月二十二日 小学校施行規則第百二十六条第二号後段により退職を命ず

この辞令をいただいて、最もはなやかな思い出の残る神戸をあとにし、寂しく九州高等女学校に赴任したのであります。

3-7 九州高女再建に努力

実をいうと、私が九州高等女学校への赴任の話が起こるまで、この学校があることさえ知らなかったのです。福岡の出身で、しかも母校の福岡師範のそばにありながらどうして九州高女を知らなかったのでしょうか。昔はそれほど私立学校を問題にしていなかったことがわかります。さて、九州高女に着任して校舎内を見てまわってがっかりしました。以前おりました神戸の明新高等小学校は高等小学校とはいえ、鉄筋コンクリートの堂々たるもの。特に、家事科の設備に至っては私が思うように設備をしてもらっています。調理室の実習台も至れり尽くせり。

ことに洗濯実習室では、洗濯槽は皆コンクリートで作り、部屋の一隅に湯沸器をおいてコック一つひねればガスに火がついて湯が出る仕掛け、洗濯のときは湯でも水でもコックを回せば自由自在に出るようになっていました。もっとも、この設備をするときは市の横尾課長が「中村先生はとんでもない理想的な設備を申し出られるので、金がかかって困る」とこぼしておられたとは聞いていましたが。・・・・・・・・・もっとも、後には神戸市の家事教育の進んでいることが世間に拡がり、毎日のように参観者があるようになると、横尾先生も自慢の種で悪い気はしていなかったようでした。

話が少し横道にそれましたが、そのような学校で家事教育の指導に当たってきているものですからがっかりするのも当然です。割烹室は板張りが古くなって所々床が落ちそうなところもある実習台は、木造トタン張りはよいとしてさびだらけ。廊下の天井を見上げると、松の丸太がそのまま見るのでちょうど農家の倉庫の感じ。私はこれはしまった。もう少しよく調べておけばよかったと思ったが、後の祭り。胸の中には何となく釈然としないわだかまりが残ってはいましたが、いまさら愚痴をいっても始まらないし、第一大人気ないと一通り校舎を見まわって帰ってきました。安河内校長先生は待ちかまえていたように「中村さん、今日は釜瀬新平氏の御霊前にお参りしましよう。そして、あなたの待遇も決めておきましょう」とのこと。

待遇のことも安河内先生のことではあるし、つまらぬことはなさるまいと安心してそんなことにはまったくふれることなく、矢の催促の電報にせき立てられて赴任した私でした。
釜瀬先生の自宅に案内されて、釜瀬先生未亡人と私と安河内先生と三人だけで仏前に合掌しました。お茶を頂いていると、安河内先生が話しかけてこられました。

「中村さんは、神戸では月給百十円、百二十円-今回は百四十五円になっていたそうだが…。この九州高女は私立学校の一番苦しい時期、おまけに校長先生まで亡くなられてとても困っている。借金が十万円ばかり、これを返すのにも十年はかかる。生徒の入学も減ってきてどうしょうかと思っているくらいだから、百四十五円なんかとても出せません。・・・・・・・・・まあ、八十円に値下げして頂かねばならないでしょう。昔からおられるほかの先生方の俸給も皆値下げしているのですから、八十円で辛抱してくれませんか」

値下げも一級か二級くらいなら世間には例もありますが、百四十五円から一挙に八十円とはひどい話です。そこで、私もはっきりいいました。

「待遇の件は先生のことですからお任せして安心して赴任しましたが、八十円とは人が聞いたら笑いますよ。そんなに財政が苦しいんでしたら、無理はいいません。せめて百円ぐらいでしたら辛抱しましょう」
「人には百円といっておいてよいじゃないですか。今の状況では八十円…」しばらく黙って算盤をはじいておられましたが、先生は思い切ったように、「それでは八十五円にしておこう」と大きな声でいわれました。
私も気の毒になってそれ以上無理をいう元気もなく、それでは八十五円で辛抱してがんばりましょうと約束したのです。

月給の方はこんな調子でしたが、教員としての席次は上の方で家庭科の主任につけられました。安河内先生は私が以前福岡県内で教員をしていた時代に御世話になった方で、その先生が何とか釜瀬校長亡きあとの九州高女を隆盛に導こうと腐心されている姿を見て、私も待遇などにこだわらず全力をあげて教育に専念、この九州高女の名声を高めるよう損得を度外視して働き続けました。

こうして五年たったある日、校長室に呼ばれました。一体何の用事だろうかと伺いますと
「中村さん、五年間一銭も増俸しなかったので、あなたも寂しかったろう。今日は久し振りに増俸してあげます」とおっしゃって五円増加、これで月給九十円になったわけです。

このころの九州高女の入学募集については、いろいろと思い出があります。
だんだんと九州高女にもなれ、私立学校の事情などもわかってきて疑問に思ったのは、
「どうして九州高女には生徒の集まりが悪いんだろう。あの偉い釜瀬先生の経営にしてはあまりにみじめな状況だが・・・・・・」

私が赴任してしばらくたってあちこちに生徒募集に回りました。最初、近くの当仁小学校に行って校長の伊藤先生に会いました。この方は、私が以前男子師範付属小学の訓導時代に知り合いになった方。生徒募集に参った挨拶をしますと、先生がいわれるのに「中村さん、すまないが九州高女希望の者はたった二人しかいない。しかも成績が悪くて困っている」とのこと。

これで私もがっかりして、いろいろ考えさせられました。近くの当仁小学校の父兄が九州高女をきらうのには、何か以前九州高女のやり方にまずい点でもあったのではなかろうか?
とにかく、成績の良い者は女子の場合、まず県立高女(現中央高校)
に行くのはまあやむを得ないとして、第二は私立筑紫高女に行きます。同じ私立でも、筑紫の方はなかなか評判がよいのです。
「どうしてこんなに違うのだろうか?」
私はやっきになって生徒募集に回りました。

「私立は生徒をたくさん入れねば経営はうまくいかないんだから」と自分にいい聞かせて・・・。横浜や神戸では女教員として日本一の待遇まで受けた私でも、時世が変ればいたし方ありません。そこで自分の金を出して菓子箱を買い、夜分小学校の女の先生宅を訪問し、おなさけの先徒を一人でも二人でも九州女学校に送って下さるようコトコト歩き回って頼んだものです。

博多の冷泉小学校を訪問したときのことです。入試組担任の先生が入れ替り立ち替り会って下さいました。例の通り、是非多数の生徒を九州高女に送って下さいと頼みましたところ、男子の先生は皆「九州高女には希望者は一人もありません」との返事。たった一人、最後にお会いした若い女の先生が「私のクラスに一人おりますが、この生徒でよかったら送りましょう」とのこと。そこでその子の成績を見せてもらってびっくりしました。成績がビリなんです。私は神戸時代はなやかな教員生活を送ってきたものですから、侮辱されたと思いムッとして「いくらなんでもこんな生徒は入れられません」と奮然として断わってしまいました。後日、このことが問題になったのです。山田先生といわれ、早くから九州高女に勤めておられた先生が、私のあとその小学校に生徒募集に行かれたところ「先日、中村先生が来られてそんな成績の悪い子は我が九州高女にもいりませんとけられましたので、九州に行く生徒は一人もいませんよ」との返事があったということが会議の席上問題にされたのです。

「劣等生だろうが何だろうが、何でも入れないと入学者が足らんじゃないか」と、さんざん文句をいわれ、私はもう情けなくてくやし涙が出ました。
またしても、私の頭の中に疑問がかすめるのであります。この九州高女にしても、創立の歴史からいえば、私立筑紫とそう違わないのにどうしてこんなみじめな状態なのだろうか。
こんな学校とは知らないで赴任したことが、急に悲しくなりました。こんなに九州高女の評判が悪いのは一体どこに原因があるのかを知るため、春吉小学校や警固小学校を尋ねて行きました。春吉には宮原校長、警固には奥園校長がおられたからです。両先生とも私が付属小学校訓導時代の同僚で気やすい方でした。両先生とも同じように

一、九州高女は非常に寄付金が多く、何かといえばすぐ寄付金募集がある。
二、小学校の若い先生を呼んで飲ませ食わせして生徒募集をやっている。

「こんな学校には私共が預っている大切な生徒は送られません。しかし、安河内校長が後継され、あなたや男子の優秀な先生方が赴任されたそうだから、これからは生徒も送りますよ。中村さん、しっかりがんばんなさい」とあとでは激励を受けました。
やはり教育というものは物質金銭をはなれ、誠心誠意生徒に対して愛の教育を行なわねば学校は発展するものでないことをつくづく感じさせられると同時に、

(一)私立学校の通弊である寄付金募集はいけない。
(二)本当に教育のため全心全霊を打ち込んで活躍するりっぱな教師をそろえ、充実した教員組織を作ること。

が如何に私立学校経営上大切なことであるかをいやというほど知らされました。

3-8 庭球部監督に

学校内の態勢もおいおい整い、安河内校長を中心として地歴、数学、美術、家庭科とおもだった幹部の先生方が一致団結して校内の空気刷新を図ったものですから、釜瀬校長時代重用されていた大酒飲みの有能な先生もそのために他に転職せざるを得ないはめになった方もありました。 この衰微した九州高女を振興し、発展させるために、具体的方針として次の二つのことがとり上げられました。
その一は補習教育を強化して学力をつけ、女子師範や福岡女専などへの入学率を高めること。
その二はどうせ学力は県立に劣るのだから体育を盛んにして、競技の面で優勝をかちとり気勢をあげることであります。

補習教育の方は元気はつらつたる山田先生が責任を持たれ、自から進学組の学級主任を担当されて大いに鍛われましたので、女子師範への入学率もぐんと上がり、福岡女専にも堂々と多数入学できるようになりました。県立高女や私立筑紫と肩を並べるようになったのも、あまり年数の経たないうちにでした。

運動競技については、もう少し詳しく述べておきましょう。
運動競技の方も、山田先生統括のもとバレー部は体育科の堀井先生、バスケットが緒方(女)先生、そして庭球部は専門でもないのに家庭科の私が監督につけられました。

これら運動の選手は全員私が担任をしている家庭科クラスに入れて預り、平素からきびしい規律に服するようにし、また倒れて後やむ気慨を養成するよう鼓舞するとともに、体力が衰えないよう食べ物にも気をつけたものであります。
バレー部には熱心な父兄の応援者的野さんといわれる方がおられたのを覚えていますが、何しろ監督の堀井先生が中心になって鍛われるものですから、めきめき強くなり、地元の強敵私立筑紫を破って県代表で明治神宮に出場すること数回、ついには全国優勝をなしとげて福岡県に九州高女ありとその名声をとどろかせたのであります。
庭球の方は、外部からコーチを二人ほどつけて私が監督です。練習のときは放課後にしろ、日曜、祭日、休暇中にしろ、頭に手拭いをかぶった私が審判台に上がってのそれこそ監督です。

猛練習の甲斐あって力もグングンつき、ある年は地方予選で八女津、糸島高女、福岡県立高女を破って優勝し、福岡県代表として明治神宮全国大会に出場しました。このときは二回戦で尾張高女と対戦、惜しくも敗れました。
ここで考えられることは、庭球にはズブの素人の私が監督をしてここまでよくまあ伸びたということです。

運動競技にしろ、何にしろ、指導者の熱意ひとつでは専門家以上の成績をあげるものです。要はその衝に当る人の熱意と迫力、努力と頭脳にあると思います。特に運動競技のような技術だけではなく、精神力を必要とするものにおいては、生徒の精神的訓練をなし得るような教師でなければ永久に優勝の栄冠はかち得ないことを痛感する次第であります。

運動の方もさることながら、九州高女に赴任して二年目、すなわち昭和七年には私の家事科教育の集録として神戸時代に引続き二冊目の著書として「郷土に立脚したる家事科の施設及指導の実際」二五〇頁を出版しました。

3-9 大成功収めたバザー

九州高女時代にまつわる思い出はたくさんありますがそのうち二、三について残しておきましよう。

先ず最初はバザーについてであります。
この九州高女のバザーは他の女学校のどれよりもすぐれ、私の自慢の一つでした。
よその女学校のバザーを見ておりますと、汁粉、すしや、おでんにしろ専門の業者を呼んで来てこれに作らせ、学校ではこれをただ来客に売っていくらかの利益を得る程度のことですが、これは本当のバザーではなく、また教育的とはいえません。

本当のバザーは、生徒が平素学習し、実習し、会得した成果の中から品目を選んで、材料注文、製作販売、来客への接待一切を行なうところにあると思います。従ってその計画、準備は綿密に、周到に進められなくてはなりません。ここに私がやってきたバザーの例をあげることにします。

1.バザーに必要な製作部門、バザー券の売り捌き部門、来客への接待部門、食器の返納洗浄部門ごとに係を置き、生徒を各係ごとに割当て配置する。たとえば、誰と誰と誰は製作係、また誰と誰はバザー券係というように。
2.バザーで最も主役になる製作係は、そのなかでまた各品目別に班に編成、生徒の分担を定める。たとえば、汁粉班は誰と誰とかいうように。そして、各班ごとに主任の先生を一人ずつつける。
3.材料注文は製作係各班で行なう。バザー券の売れた数は各品目ごとに大体事前に把握されるので、その材料数量をはじき出し、各班で食料品店に注文する。たとえば、汁粉班では二千人分作らねばならぬとすれば、砂糖何十キロ、小豆何百キロとか。
4.製作係の各品目ごとの班では、製作する場所に必要な道具、器具をあらかじめ手配しておく。
5.当日のバザー券の即売、来客への接待、食器の返納、洗浄の仕方については事前によく訓練しておく。

以上を前もって充分習熟させておけば、生徒は自信を持っておもしろくやるし、バザーの運営もうまくいくはずです。
私は料理専門の教師ですから、当日は監督采配の方は他の女の先生に依頼して、私自身、助手と適当数の生徒をとっておき、一番難かしい鮨とカレーライスの製作担当に当たったものです。

鮨の方では調理室のそばの屋外に大型テントを張り、一斗釜を三個も据えて、飯を一斗ずつ炊いては自分で鮨をつけてやる。これを生徒は日ごろ教わった通り、お好み鮨と名付けて

①握り鮨(東京式)
②巻き鮨(大阪式)
③箱鮨(神戸式)

を手際よく作り、盛り合わせて出す。福岡市内の鮨屋はそっちのけです。

東京式や大阪式、神戸式と一流の鮨を長期にわたり実地に学んだその結果を平素教え込んでいますから、作る生徒も自信満々。私自身、三十数年間苦労して学びとった鮨のことではあるし、鮨の飯にしろ、調味でもまずまず満点。好評を博し、すばらしく売れました。 また中村式カレーライスは前に述べたように、ビハリ・ボースのインデアンカレーライスにさらに改良を加えて、鶏の臓物のほかに玉葱、人参のミジン切りも加えているので、これまた市内の店で出しているカレーライスとは雲泥の差。これも人気がよく、ついには売り切れて困るくらいでした。

そのほか「雑煮」「おでん」「うどん」「汁粉」「サンドイッチ」等々、万人向きのものをおいしく生徒が作るので、二日間のバザーに入場者は一万人近くにものぼり、利益も莫大な額に達しておりました。
九州高女では毎年十一月の上旬に、このバザーを催しておりました。年ごとに入場者も売り上げもふえて校長の安河内先生も大喜ぴ。この利益は学校の借金払いにも使われたのでしょうが、私の方はその一部で調理実習用具を買ってもらっていました。またほんの一部は全職員慰労の意味で慰安旅行費にあてられたようで、糸島方面に出かけたことを覚えています。

バザーについてもう一つ大切なことは、バザー券の前売りをしておくこと。その前売りの数量をきちっとつかんでおくことです。九州高女のそのころは事務長に毛利先生がおられて、手配に抜け目はありませんでした。品名と価格を印刷した券を卒業生や生徒の手を通じて一般や父兄に売り捌きますので、バザーの前々日までにはきちんと各品目毎に売れた券数がわかるのです。これを製作係の方に連絡してくださいますので、製作係の各班では前売りの分に当日即売の見込数を加算して材料を注文し、製作にとりかかります。当日即売を少し控え目に見込んでおけば、品切れになるくらいで、作っただけは全部売れてしまう。従って利益も多く、私はこの九州高女時代十五回のバザーを担当しましたが、いつも予想以上の利益を上げ、もちろん損をしたことは一回もありません。

私の考えでは、このバザーは女子の高等女学校以上の学校では年に一回ぐらいはやるべきだと思います。とにかくこのときは生徒も真剣です。券を前売りした以上はいやがおうでも作って出さねばならないし、ぐずぐずしていてはお客様が承知しないのですから、平素の料理の実習とは異なり、生徒も一生懸命にならざるを得ません。
私の体験では、バザー後は生徒の実習態度がよくなり、人間も変るし、第一生徒が自信を持つようになります。少々授業に差支えはありますが、それ以上の効果があると思います。年に一回が無理ならば、せめて二年に一回ぐらいはやった方がよいと思います。

3-10 戦争の混乱のなかで

昭和十六年十二月八日、日本が大東亜戦争に突入しました。最初のうちは大勝につぐ大勝で、私ども教師にしろ、生徒にしろ、戦争の直接影響を受けることはなかったのですが、だんだん戦局が悪くなるにつれ、私どもの学校も急速に変って行きました。昭和十九年以後は特にそうであります。

当時、私は寄宿舎の舎監を以前に引続き仰せつかっていました。このごろになると、学校の授業はなく、生徒は朝から弁当持参で筑紫郡にあった渡辺鉄工所(大きな兵器工場)に出かけ、弾丸造りの手伝いが日課になっていました。寄宿舎の生徒は毎朝五時に起床し、冬でも夏でも洗面をすませたら二列縦隊に並ばせ「一二一二」のかけ声でまず西公園の光雲神社に参詣して戦勝祈願。それから帰って来て六時に食事をすませ、七時には工場に出かけるのがならわしになっていました。
夜、いやな空襲のサイレンが鳴ると、飛び出してすぐ前の学校の校庭に集まり、校舎の警備に当たります。解除のサイレンで寄宿舎に帰って来て寝るといったありさまで、舎監の仕事も容易なことではありません。

それのみか食物が欠乏してきて、野菜や魚、米麦の配給も思わしくないようになってきました。米麦は卒業生のうちに特別頼んで何とか配給を受け、魚は湊町の漁業会社に嘆願して、ときどき特別の配給を受けましたが、一番困ったのは野菜です。

そこで校長先生にお願いして運動場の隅二個所を借り受け、これを耕して畑にしました。
ここに、ナス、青菜、カボチャ、キュウリ、トマトなどあらゆる季節季節の野菜を作りました。舎監たる私が先頭に立って、寄宿舎の生徒皆で野菜作りです。土地がやせているものですから、西公園の山に行うて腐葉土をとって来たり、よく馬糞拾いもしました。これが町の有名な話にもなったのです。人間の熱心さは恐ろしいもので、丹精こめて作った結果、野菜屋にも見られないりっぱなカボチャやトマトなどができ、生徒はいつもみずみずした新鮮な野菜を食べることができました。

忘れもしません。昭和二十年六月十九日夜の福岡大空襲。この空襲で、九州高女も火災に遇い、学校はプールと寄宿舎だけを残して全焼してしまいました。このときの無念さ、悲しさは、今だに思い出しても涙の出るほどです。とにかく生徒が入る教室はまったくない状態になってしまったのです。それ以後、校舎が戦後完成するまで、近所のお寺三カ所を借りて間に合わせるまことにみじめな状況になったのです。

私はこの九州高女在職中三回表彰を受ける栄誉にあずかっています。今その事績を拾って見ますと、

1.昭和八年十一月十一日帝国教育会創立五十周年記念日に、我国教育功労者として教育功労賞を授与せらる。
2.昭和八年十二月五日右により、福岡市教育会より祝いの記念品を授与せらる。
3.昭和十五年十一月十日紀元二千六百年記念祭のとき、我国教育功労者として文部大臣賞を授与せらる。

となっています。

このような過分の表彰を受けるようになったいきさつについては、私はまったく知らないことでした。恐らく安河内校長先生が、月俸を随分切り下げられて赴任し、しかも何年間も増俸はできないのに、私が何ら不平不満を漏らさず教育のために全心全霊を打ち込んで働いていることに対するせめてもの感謝の気持ちから、関係当局を動かしてのことではないかと推測しています。

安河内先生という人はそういう方でもありましたし、私自身も感激し、大いに感謝したしだいであります。私としましては、教育者はこれでいいんだと思っております。金銭にとらわれ、常に不平不満を持って働くのは、教育者の道にあらずと思っていますから。
昭和二十年に、二代目校長の安河内先生が他界されました。安河内先生とは足かけ十五年間苦楽を共にしてやってきた間柄です。三代目校長として創立者釜瀬新平先生の実弟にあたられる釜瀬富太先生が門司市の助役をやめて就任なさいました。

私は安河内先生が亡くなられたのを機会に、自分も九州高女から身を引くべきであると決心しました。退職願いも再三提出しましたが、釜瀬新校長から「中村さんが辞めたら九州高女がまた弱くなる。あなたは留まって死ぬまで勤めてくれ」となかなか聞き入れてもらえません。仕方がないので、家族の者や親類の者に相談したら「それほどいわれるのなら二、三年辛抱したがよかろう」ということになり、私も三年ぐらいと考えて勤めをつづけることにしました。

新校長の釜瀬富太先生は、実兄が創立された学校をさらにりっぱな女学校にせずにはおかないとの一念で、燃えるような情熱で学校のことに取り組んでおられます。私もこの熱心さに意気投合して調子が出、安河内先生時代と変らぬ勤務振りだったものですから、新校長も非常に喜ばれて私を重用されたものです。

3-11 バザーで教室をつくる

昭和二十三年に入って間もなく釜瀬富太校長から呼ばれ、厳粛な態度で、中村さんに一つお願いがあるということでした。

「実は、校舎は戦災に会って全焼し、御覧の通りお寺を借りて授業を続けている状態です。このまま卒業生を送り出すのもかわいそうでならない。せめて卒業生なりともしばらくまともな教室で授業して送り出してやりたい。冬の雪空で気の毒だが、例のバザーをやって木造二教室分の純益をあげてくれませんか」という相談でした。私も考えました。二月の寒中はまあ辛抱するとして、戦禍のため米は少なし、野菜はなく、甘藷でさえ思うに任せず、まして砂糖などは見たこともない時である。これは困った相談だなあとは思いましたが、本来私は学校のためなら身を粉にしても尽くす信念を持っていますから、断わる勇気もなく、「よろしうございます。何とか工夫してやれるだけやりましょう。」と答えました。釜瀬先生は大喜びで「ありがとう。ありがとう。無理だろうが、どうか生徒のためやっていただきたい」と、話だけは簡単にきまりました。

さあ、それからが大変。私の苦労といったら、ひととおりではありません。請け合ったものの野菜は無し、砂糖はなし、食品は手に入らない。 米は、卒業生のうちで米屋をしている人に頼んで特別配給をしてもらいましたが、一番困ったのは甘味料です。大牟田市の三井染料でズルチンやサッカリンを作っていると聞いたものですから、そこへ行ってできるだけたくさん分けてもらいました。しかし、それだけではとても足りそうにありません。

今度は黒崎の化学工場に行って、ここでもズルチン、サッカリンを分けてもらいました。砂糖の方は市内の菓子屋さんに一軒ずつ頭を下げて回り、少しずつ譲ってもらい、これで甘味料も何とか揃いました。甘藷は姉の保坂が大きく農業をやっているので、こちらに手配を頼みました。その他の材料も不自由ながらどうやら揃ったので、品目も「お好み鮨」「カレーライス」「おでん」「雑煮」「蜜豆」「汁粉」などにし、生徒に調理法を指導し、熟練させて曲がりなりにもバザーを開催したのです。

九州高女のバザーといえば、昔から定評がありましたので、時期が悪い二月の寒中というのに、もう一つは終戦後皆食べ物に困っていることも手伝って八千人もの入場者があり、純益二十万円を挙げることができました。この益金で予定どおり木造二教室が完成、卒業生は卒業間ぎわに本式の教室で勉強ができたのであります。
釜瀬先生の御満足は一通りではありませんでした。職員会の席上で非常に喜んで披露なさいましたが、私にとっては雪の中に甘藷を集めるやら、砂糖を分けてもらいに歩くやら、まさに地獄の責苦のなかのバザーだったのです。

ところが、この職員会の席上で、一部の教員からバザーについての非難めいた言葉が出ました。
「汁粉の味も鮨の味もなっとらん。風味も何もない」
「あんなおいしくないバザーはかえって学校の恥さらしだ」
などというのです。

私はこのときほど、胸が煮えたぎり口惜しかったことはありません。
私はこの悪口、雑言をじっと聞きながら、胸のなかで考えました。「考えてもみなさい。終戦後調味料食糧品のない今の時代に、バザーを完全にせよというのが始めから無理な話。しかも寒中バザーするのがまちがっている。しかし、生徒のことを思えば校長先生がいわれるように不欄でならない。この私は横浜以来三十数年間、料理研究一途に苦労してきているんだ。九州に帰ってからでも、休暇を利用して自費で料理研究に打ち込んできた。材料さえまともに揃えば、こんなバザーぐらい何のことはない。というのに、わからない者は勝手に・・・・・・ああ、こういう学校にはもう長くおられない」
九州高女に対する私の情熱が急速にさめていったのは、それからでした。