学園祖中村ハル先生

学園祖中村ハル先生の誕生百年祭と霊塔の建立

昭和59年6月1日、この日に中村ハル先生生誕百年祭並びに霊塔除幕式が、菩提寺である千眼寺にて盛大に執り行われた。中村ハル先生がもし御存命であれば、ちょうどこの日で満百才である。この事に気づいたのは、中村ハル先生に永く師事していた ある先生が言い出されたからで、それは昭和58年の春先の事であった。また、昭和59年が学園創立30周年に当たり、その為の記念式典や記念事業の準備に入り始めた時期でもあった。ちょうど時期を同じくして、一旦目標を樹てたらどのような困難があってもそれに負けないで常に向上心を燃やした中村ハル先生の若かりし頃の逸話が、福岡県内の小学校五年生の道徳教育の副読本の中に「努力の上に花が咲く-中村ハル」と題して紹介された。中村ハル先生のお墓は、菩提寺の方針により、納骨堂形式になっており、以前より、教職員、卒業生、在校生その他の方々が、お参りに行く際、分かりにくくもあり、不満が多かった。ここに、「生誕百年を記念して、ぜひとも、墓所の建立を」という声が湧き上がり、昭和58年7月4日の常任理事会に於いて、墓所建立の件が、正式に決定されたのであった。

大悲山 千眼寺

大悲山 千眼寺

〒814-0006
福岡県福岡市早良区百道1-3-6

さっそく、千眼寺に対して、中村ハル先生が、小学校の道徳教育の副読本に教材として掲載された事は、中村学園に留まらず、広く社会に認められたとの認識に立ち、中村家の墓所ではなく、あくまで、中村ハル先生個人のお墓を何とか建立させてもらいたいと申し出た。 総ての檀家に対して、お墓の建立を認めていない過去のいきさつもあり、このことはなかなか困難を極めた。千眼寺住職岡崎行応師をはじめ、筆頭檀家総代の渡辺茂氏、その他の檀家総代の方々の御理解と御協力により、どうにか墓碑に準ずる霊塔であればということで実現の運びになった。霊塔の製作を国松石材に依頼し、題字の揮毫を中村ハル先生が最も尊敬されていた元文部大臣、剱木亨弘先生にお願いした。塔銘については中村久雄理事長が、自ら撰し書かれた。

地図

銘塔

中村ハルは明治17年6月1日西新町に生る 明治35年福岡県師範学校を卒業後、福岡県内各小学校訓導を歴任、 松崎実業女学校を最後に神奈川県に転出、横浜市内高等小学校家庭科担当訓導、次いで神戸市内高等小学校訓導兼兵庫県 視学委員を歴任す横浜、神戸在任中は熱心なる教師として子女の教育に当る傍ら余暇を割き料理研究に精進す 昭和5年 請はれて福岡市私立九州高等女学校家庭科担当教諭に赴任昭和23年同校を退任す 昭和24年料理研究の成果を活かし 中村割烹女学院を開設爾後福岡高等栄養学校を設置、次いで中村栄養短期大学、中村学園女子高等学校、中村学園大学、 同付属幼稚園を順次開設、自ら理事長、学長、校長、園長としてその経営教育に熱情を注ぎ中村学園の礎を築く 子女の教育に献身し料理研究の深奥を究め 「努力の上に花が咲く」 の遺訓を残し昭和46年9月2日その生涯を閉づ
享年88才 従四位に叙せられ勲三等宝冠章を受く

中村久雄  撰、書

目録

この霊塔の題字の揮毫を剱木先生にお願いするに当たり、題字を「中村学園祖 中村ハル之霊塔」とした。 宗教界に教祖あり、お寺に開祖あるが如く、中村学園の創立者を学園祖として具体的に位置づけすることにした。今後は創立者中村ハル先生を、学園祖中村ハル先生と呼び、中村学園が続く限り、その教学・経営の原点として 我々の心の中に生き続けられることをこいねがってやまない。(中村学園三十年誌より転載)