学校法人中村学園

学園祖 中村ハル先生の想いと記録

中村ハル物語

第五部 学校法人中村学園設立

割烹女学院が順調であるとき、全国各種学校連合会長と事務局長が来校され、「中村さんはながいこと料理とか、栄養とかを研究されていると聞いています。ここで一つ栄養学校をつくって栄養士の養成に当たったらどうですか。いま九州には栄養士の養成校は三、四校しかなく、とても足りないのです。幸い、料理学校はすでにあるのだし、前の空地(地行西町の割烹女学院の道を狭んで東側に200坪程度の空地がそのころありました)を買い足して、普通教室を2、3作ればいいんですから」と、すすめられます。

「私も大いに心動かされるものがありました。といいますのも、栄養のことは永年勉強してきたことでもあるし、また料理の指導をするにしてももう一段深いところの栄養の分野にまで入らないと、駄目だというのが従来からの私の主義だったからでもあります。」

ハル先生は、栄養士の資格を与えるような、社会的に見てきわめて公共性の強い栄養学校のような学校の経営は、学校法人で行なうべきであるとの結論に達され、学校法人設立の準備にとりかかりました。
福岡県知事から学校法人中村学園設立および福岡高等栄養学校の設置認可が下り、さっそく第1回目の生徒募集にかかったところ、やはり社会的要求も強かったとみえ、定員百名のところに150数名の応募者があり、そのうちから110名余が入学を許可されました。学校法人中村学園の設立と福岡高等栄養学校の開校を祝して、昭和29年5月17日記念式典を催しました。これがその後、中村学園の創立記念日になったのです。

「さて、この福岡高等栄養学校を経営し、また校長として実際教育に当って生徒をみると、何となく品性に劣るところがあります。やはり職業教育だけにかたよっては駄目です。一般教育も取り入れた総合教育を施さねばいけないと、ひしひしと感じました。生徒の方も同じ二年間勉強するのだったら、短期大学に昇格できるようにして下さいと強く希望してきます。」

ハル先生は短期大学の設置を決意されます。短大の設置認可については、文部省との折衝等まったく苦労の連続でしたが、昭和32年4月中村栄養短期大学開学後は入学志願者も多く順調な歩みを続けてきました。

「中村栄養短期大学を開学して後、学生の学習内容の実際をみると、とても短大2年間には盛り込めないくらいに講義、実験、学外実習がつまっています。これではよほど基礎学力を持って入って来ないと実力はつきません。そのためには、短大の下につける予科的な高等学校の必要ということも漠然と考えていました。そのような考えを持っているところに、私をどうしても高等学校設立へ踏み切らせた一番大きな動機は、この中村栄養短大に入ってくる女子学生の生活態度を見たことであります。私の短大では、授業終了後の掃除は当然のこととして学生の務めになっていますが、あるとき掃除のしぶりを見ておりますと、雑巾を足の先につっ掛けて使ってみたり、雑巾の絞り方ひとつ知りません。また先生にお会いしても、会釈の仕方ひとつ知らず、これでは女性としての躾は全く零です。恐ろしい気がしました。今の高等学校は何をしているのだろう。進学のことや、知育のみで終わって、徳育はほったらかしになっているに違いない。よし、それでは自分で高等学校をつくって、ひとつ理想的な教育をやってみようと決意したのであります。昭和34年ごろのことです。」

ハル先生の情熱は料理研究だけでなく、女子教育へ注ぐことになります。 そして、昭和35年4月中村学園女子高等学校は開校しました。

INDEX
 
第一部
教育者の道をたどって
 
第二部
料理研究に燃やす執念
 
第三部
努力は涙とともに
 
第四部
教育の花開く
 
第五部
学校法人中村学園設立
 
第六部
努力の上に花が咲く