中村学園大学・中村学園大学短期大学部

博物学者としての貝原益軒

私はここに掲げてあります通り、博物学者としての貝原益軒先生という題でお話をするつもりであります。私は日頃益軒先生を尊信している者でありまして、今日先生の二百年祭にでまして先生の功績について意見を述べることをえますのは非常な栄誉と存じます。

私は子供のうちから益軒先生に親しんだものであります。
ここに「和漢名数」という書物があります。これは私が十歳のときに伯父から貰いまして始終見ておりましたもので三冊ありまして、漢文で書いてありますけれどもごく簡易なものであります。
私の子供の時分は大抵七八歳から漢籍を読んでおりますから幾らか読めたのでかつむずかしい読み方の字には仮字がふってあります故によく意味は分からぬながらも非常に面白いと思って読みました。これはご存知の人もありましょうが、天文、地理、動植、人事、歴世というような種々のことが分類してのせてありまして、ちょっと字引のような非常に便利なものであります。

私の小学に行きます時分は小学に博物なんという科目はありませぬ。博物学上の知識というものはこの「和漢名数」であるとか、また中村惕斎という人の「訓蒙図彙」であるとか、そういうを見て覚えたのであります。非常に先生の恩沢を蒙っております。また十一歳のときに先生の「大和本草」という書物を見て非常に面白いと感じました。これは唯見たばかりでありませぬで実物を探して研究したこともあります。

すなわちいろいろのことが書いてある中に蝿取草というものがある、蝿を捕るにその薬を飯に押して用ゆというようなことがあって非常に面白いと思いましてそれを探したことがあります。
その時分は浅草の橋場という所に真崎神社というお宮があってその辺におりましたが、そこに旧藩主の邸がありまして、同所の神明神社には大きな森があって、そこで蝿取草を先生の書物によって探したことがあります。

蝿取草は一名蝿毒草ともいい方茎対生すなわち四角な茎で葉がむかいあって居るものであります、その時分頻りに探しましたが。しかしながらその草はありませぬで、園と躍子草という植物に探し当りました。大和本草に続断という漢名をあててある草でやはり方茎対生でありますが、そういう風にして、何しろ実物について物を探すということがこの書物によって癖になったと言うような訳でありまして、その時分からこの大和本草の恩沢を蒙った訳であります。

その故に私は先生の肖像の裏に書きつけたことがあります。貝原家に肖像があってそれを写したのを呉れた人がある。その裏に書きつけた腰折れがある。

世を隔つ学の親とかしづきて
あさな夕なに仰かざらめや
たぐひなきいさを偲びて朝夕に
仰げば高し君がおもかげ

こういう句調で、つまらないものでありますが先ず先生を尊信している心だけは表した積もりであります。

それで先生は凡ての事に通じておられた、即ち「ユニヴァサル・ジェニアス」で、凡ての天才があったものであります。ただ一科目だけに優れておったのではない。そこが先生の偉い所でありまして、道徳の方では、神道であるとか、佛書であるとか、儒書であるとか、凡てを見られた。またその外天文地理、博物、農学、医学というように総べて研究された。非常な学者であったのであります。故に先生を評するにはこれらの学に通じた人でなければ充分に評することは出来まいと思うのであります。すなわち我々は唯一部分を探って盲人が大象を探るようなものであると思います。その事は貝原先生の門人鶴原氏がすでに大和本草の序に書いておられます。

・・・・・先生の業は力めたりと謂う可し、是を以って之を観れば其の名物の学の如きは、誠に格物の一方にして百事の一件なり、人或いは其一方と一件とを認めて以って先生の業を覗はば安ぞ先生の業の大なるを知らんや云々

とあります。まず博物学などというものは非常に広いものであるがこれが先生のごく一方の学問であるとは驚くべきである。その外に教育、医学、哲学という色々の方面を深く研究されたものであります。そこで私の受持は博物学者としての貝原益軒先生について論ずるのでありますが、博物といえばひろく動植、鉱物の学に通ずるをいうのであってこれらの動植鉱物について先生の学術を詳しく論ずることは到底私には及ばないことであります。私はただ植物のことを少しやって居るだけでありますから植物の方について申し上げます。

なおこの「大和本草」に載せてあることでいろいろ批評すべきことは、今より百年ほど以前に小野蘭山先生というのが既に「大和本草批正」という立派な書物を作られている。それは近頃出版になった「益軒全集」の中に収載されてあります。原稿が私の家にあったので、それを益軒会という会から出せということになって出して「益軒全集」の中に入れた。それについて御覧になればこの「大和本草」の詳しい批評はお分かりになります。ただ植物学の方から見ましても、先生の豊富なる植物学上の知識というものは尊敬すべきものであります。

細かいことは今ここで長く言うことはできませぬが、大体について先生に功績の一端を述べようと思います。

先生の博物学上の著書は、今言いました所の大和本草(16巻)。本草綱目校正(38巻)。本草名物附録(1冊)。其の外花譜(5冊)。菜譜(3冊)。それから和漢名数(3冊)。日本釈名(3冊)。それから格物余話などというものもある。これらも名物に関係したものであります。千字類合などという朝鮮の本を訂正されたものもあります。

先生の時代には今日のいわゆる博物学というものはなかったのであります。今日の博物学と先生の時代の博物学と違っている。その代わりに、本草学、名物学、物産学というこの三つの科目があった。その三つを合わしたものをまず博物学と言ったのである。本草とは何かというと、漢方の医者が用いる所の薬品を講究したものであって、すなわち医者の学問に関係のあること。名物というのは、物の名と実物とを対照して調べる。歴史とかいろいろの書物に出ているところの禽獣草木その外物品の名実を弁明する。この学問が矢張り必要であります。書物などに色々の品物が書いてあっても、実物がどういうものであるということが分からなくっては真に書物が分かったのではない。名物学というのは昔も必要であったが今でも必要であると思う。歌を詠んだり詩を作ったりする場合に、その中の物の名が出ても、その実物を知らずにやっている人がある。それではいかぬ。そこでそれらの実物を正直に調べる、すなわち現物の学問という必要な学問であるのです。それから物産学、これは国々の地理を書いたものなどに物産という部があり、その外どこにも物産があるが、その物産の種類を講究したものであって、やはり名物学の一種でありますが殖産興業に関係のあるもので、今日では商品学などというのがありますが、すなわち物産学の進歩したものであります。

こういうように益軒先生時代の博物学というのは本草、名物および物産について講究したものと思えばよい訳であります。大和本草という書物は、先生が、多年間これらの本草、名物、物産について講究せられた結果を網羅して一部の書物に綴られたものであります。そうして後世に遺された。丁度先生が七十九歳の年に作られた。これがために後世非常な利益を得ているのであります。

昔は物を知っていても秘して伝えない風があった。先生は人と異なってこれを後世に伝えるを喜ばれた。兎に角これだけのことを纏めて一部の書物にした人は空前であります。先生以前また同時にいろいろ本草、名物、物産に関した書物を著した人もありますが皆一方に偏していたりまた、簡単に過ぎたりしている。薬物だけを書いたものとか、或いは植物ばかり書いたものとか、または名物のことばかりを書いたものは段々ありますが、しかしながらそれらを集めて書物にして至極便利に分かり易く書いたものはないのでありまして、その点は先生の大和本草が一番完備しております。この大和本草という本は、単に医者のみが見るものでない。凡ての人が見て益のある書物であります。そうしてこの書物に載っている品物の数が千三百六十二種ありまして、本草綱目という書物から取って載せられたものが七百七十二種、それから本草綱目以外のいろいろの書物からして集められたもので、漢名のある品物が二百三種、漢名のない即ち日本固有の和品が三百五十八種、それから海外産すなわち外品というものが二十九種。この多数の品物を一々詳しく研究されてその結果を載せられたものであります。

それからこの大和本草という著述の少し外の書物と異なって秀でた点を挙げて見ますると、第一に、やはり目録の外に総論が載せてある。先生の著述には大抵総論があります、総論は、本草学、物産学、名物学の沿革のようなことが詳しく書いてある。かつその参考書まで出ている。本草にはどういう参考書があるとか、また名物にはどういう参考書があるというようにして、そうしてその参考書より引用せられた事柄は先生の書中に精しくその出処が挙げてある。

それから又学者の心得なども書いてある。
博物学などを修める人の心得がいろいろ載っている。これは一々お話する訳には往きませぬが、例えば人の研究したことを自分のものにしてはいけないとか、また広く見て丁寧に調べなければいけない云うような事柄がいろいろ挙げてある。第二には分類です。

大和本草に用いた分類がある。これは動植物いろいろのものが挙げてあるので、分類をしなければ不便でありますから、いろいろ分類して、草であるとか樹木であるとか、樹木の中にも或いは果物の樹であるとか、花の樹であるとか、草の中にも薬草、花草、園草、雜草、水草、海草であるとか言うように分けてある。
即ち先生の用いた分類というものがある訳であります。

その分類がこれまで支那の書物に用いてあった分類そのままを用いてない。即ち先生が自分で理屈にあっているような分類を考えられてそれによって分類されたものであります。
すなわち総論のところに、本草綱目の分類には疑うべきことが多いから改める点がいろいろあるということが書いてある。本草綱目には六十一類になっている。いろいろの動植鉱物を六十一の部類に分けられてあるが、大和本草においては三十四部類に分けられてある。

そういう風に分け方は自分の考えた所を記されている。すなわち分類について自分の意見をもって居られて、それによって編集された。ただただ人の真似をして作られた訳ではない。今より二百年前であるから、今日言うところの自然分類とか何とか言うような言葉は素より用いていない、かつこの書物というものが薬品とか名物、物産などを書いたものであって、生物の天然分類などを論ずる訳の書物でないから、そういうような今日の動植物の分類に悉く一致しては居らぬ。

しかしながらその時分で最も理屈に合ったように分けてあるのであります。第三にこの書の特徴は漢名のない品物を挙げてある。前に申しましたように漢名のない品物三百五十八種というものが載せてある。多くの学者はただただ難しいことを書けば宜しいと思って、何でも漢名のあるものばかり載せる。支那の名のないのはことさらに省いて載せない甚だしいのは偽名を作るというような訳であったが、先生はそういう事はしない。

それから第四には、通例の本草というものは薬なら薬になるものだけ、食物なれば食物になるものだけを載せてあるのであります。それをこの書には無用の小草といえども名のあるものは記載してある。又歌にあるとか詩にあるとか言うものも広く考案して乗せてある。それが外の本草と違う所であります。

第五には図を加えてあります。むずかしいものには図を加えてある。凡て博物学上のことというものは、葉が円いとか、何がどうだとか言ったところが、言葉ではなかなか分からないから、図が必要である。この時分多くの本には図がなかったが、先生は図を加えられて親切に説明がしてある。又仮名でも分かるように書いてある。

そういう訳でありまして、大和本草という一つの書物について見ましても、先生のはただただ難しいことを書いて後世に遺そうというのではない。世を益するように誰にも分かるように書いて、知識を十分に与えると言うことをやられたと言うこと即ち益軒先生の先生たることが分かります。

先生の名はただただ日本ばかりでなく西洋にも知られているのであります。
文政年間来朝の独逸のシーボルトは先生は日本のアリストートルであると言い、露西亜のブレッドシュナイデルという学者この人の支那植物考(ボタニカム シニカム)といふ著書には貝原先生の大和本草というものは日本の博物書の最初の本であってそれは極くオリジナルの述作であるということが書いてあります。

又和蘭のゲールツという人が拵えた「新撰本草綱目」というのがある。それにはこの先生の大和本草の分類表が訳載してあります。併し大和本草の総論の所に「気化とは天地の気交て自然に人物を生ずるを言う。易曰天地**万物化醇とは是也。今人の肌の湿熱より虱を生じ土中よりキリムシを生ずるが如し云々」とこう言うことがありますがこれは今の説とは違っている。

今ではUrerzeugung自然発生即気化というものは現今行われていないということになっているが、そう言う不条理なことが書いてあるといって非難する人がありますが、しかしこれは時勢を知らない説でありまして、この時分は顕微鏡は無し学問も進歩して居りませぬからしてこう言うことは誰も言っている一般の通説で先生ばかりがそう言うことを言われたのではない。

西洋でもこの気化と言うものがないと言うことを証明したのは千八百六十年即ち今より五十年前であります。先生の没くなりましたのは二百年前でありますが西洋でも五十年前にフランスのパストールという人が実験によって始めてこれを証明したのであります。先生ばかり間違っているのではない。これは先生のために弁護して置きます。

それから先生は旅行をたびたびせられました。東都に来られたことが十二度、京都に上られたことが二十四度、長崎に行かれたことが五度、その他諸州を度々旅行せられている。博物学とか動植物学などというものは唯々家の中で書物を読んで居ったばかりでは能くわかるものではない。先生は旅行をしてその旅行の中に博物学のことに就いては只今唯々一端を申したのでありますが、その外儒学のことであるとか、或いは音楽のことであるとか、又は地理歴史史跡の保存などのことまで能く注意せられて居られるようであります。

これは先生一代の著書が六十部二百七十余巻あって諸般の学科に亘っているので分かります。それらのことは又外の先生方から段段お話になるであろうと思いますから極く不十分でありますが私はこれだけに致しておきます。

(現代仮名遣いおよび常用漢字を用いましたが、それ以外はできるだけ原文に忠実にするよう努力しました。*の部分は適当な漢字が見つからなかったものです。)