中村学園大学・中村学園大学短期大学部

養生訓校注の序

自然科学的著作から哲学的著作まで、百あまりに及ぶ益軒貝原篤信先生の著書のなかで、医学に関した著書は、養 生訓八巻だけだといってもいいであろう。もっとも養生訓のほかに、竹田定直に輯録させ、天和二年、養生訓完成の三十二年前にできあがった頤生輯要五巻があるが、これは養生訓の後記にもあるとおり、養生訓の下準備的なものにすぎない。

しかし幾分でも医学に関係がある記述は、益軒先生の著書のいろいろな部分に認められる。養生訓の七年前、宝永二年に完成した万宝鄙事記八巻では、七,八の二巻に、養気、食禁、用薬、灸治などについて述べてある。これらは内容としては養生訓の一部とほとんど同じ趣をもっており、さらに簡明、実用的でもある。そのほか、大和本草にしても、花譜、菜譜にしても、その部分部分には益軒先生の医学についてのゆたかな知識があふれ、また居家日記のところどころにも、養生訓的な記載が認められる。

これらのことは、益軒先生が医者だったと多くの人々に誤信させる原因となったが、特に、ひろく人々に読まれた養生訓の記述が、その最も主な原因となったと思う。益軒先生は若いころ医者になろうとして一時頭をまるめたこともあったが、すぐにその志をすててしまった。しかし、医学的な知識に対する先生の努力は終生つづけられたようで、それも普通考えられているように、自分の体がよわかったから、それを養生するというためだけの努力だったとは考えられない。

もちろん、父寛斉は本草学の知識もあり、時折は病人の薬を処方もしたといわれ、三兄存斉は黒田光之の侍医までつとめたほどの医者であったから、益軒先生は幼い時から医学に興味をもつ機会も多かったであろうが、何よりも、益軒先生の科学的な、すぐれた性格が、医学あるいは医術の本質的な即事性によく調和したのであろう。

益軒先生の数多い日記のなかに、用薬日記がある。宝永四年七十八歳のときから正徳二年八十三歳までの記録で、上、中、下三冊ある。このほかにこれに類した記録があったかどうかはわからない。この日記のなかには、自用の処方、夫人のための処方などが、薬量の工夫、配合の注意とともに記してあり、さらに自分の経験にもとづく用薬の批判などが加えてあり、これだけによっても、益軒先生が、医者ではなかったが、医術の実際的な方面にも努力をおしまなかったことがうかがわれる。

あらゆる医学書を読破し、すべての本草書に親しみ、自らためし、他人に見て、知識がゆたかになっていくにつれて、益軒先生の心にうつつたのは、内外の多くの医者の論述がほとんど実際的でなく、非学問的だったことであろう。追求が深まるにつれてますます感じられてくる多くの矛盾は、「余医生にあらず」という益軒先生に、医学者的な養生訓の大著を残させることになった。先生の医に対する態度、識見は、養生訓の第六、第七巻をよめば明らかである。養生訓が完成したのは正徳三年で益軒先生の死の前年、大疑録完成の前年であり、それだけにこの中に述べられた内容は、最もよく益軒先生の思想を表しているものだといえる。

益軒先生の学問における態度が科学的だったことはいうまでもない。日本における最も初期の科学者として、日本の科学界に残した業績の偉大さ、日本の学問だけでなく一般社会にあたえた影響の広大さは、廣いはんいにわたって深い洞察とゆたかな識見をもち、あくまで批判的懐疑的だりながら、その思想が少しも手痛いすることなく、死ぬまで、進展した益軒先生の無双の学識によることはいうまでもないが、益軒先生が充分に活躍することができたその時代の、社会および学問の傾向もまた見すごすことはできない。

益軒先生の時代は、徳川幕府が鎖国を強化したころから、元禄時代の少し後までに属する。そのころは新しい外来の刺激がほとんど失われた時代ではあったが、国内は一応安定した状態であったとともに、内部的な社会状態転換の機運をはらんで、いろいろの実際的な、技術的な問題が多くなり、学問のしかたも必然的に即物的、実証的になってきた。また経験を重んじただけでなく、自ら実験をこころみて、ものごとを追求していかおうとする傾向にむかっていた。

医学の方面だけから考えても、益軒先生の時代の前後は、古医方家といわれる医者も、後生家といわれる医者も、まじめな立場にあった医者はどちらも、患者を充分に診察し、その症状に即して、自分の正しい経験に基づいた方法にしたがって治療をほどこしていく、という点に達していた。ただ自分の立場を主張するために、理論をたて、体系をつけるためのよりどころとした理論において、種々の立場に分かれていたと考えていいであろう。しかし、医者の真剣な努力にもかかわらず、そのころの医学に根本的なよりどころとなる基礎医学的な知識が乏しかったために、結局は停滞におもむくよりほかない状態となっていた。

益軒先生の養生訓のなかにあらわれる、解剖、生理、病理的な考えにもこの関係はみとめられる。また益軒先生自身、より積極的に根本的なものの追求に努力している点はみとめられないようである。その上養生訓のなかには現在の医学的知識からみれば、誤った、または不適当な理論的記述の部分もかなりある。それにもかかわらず、養生訓を一貫して流れ、われわれに切実に感じられる真実性は、実に益軒先生の限りなく深く豊かな経験と、学問的態度の正しさによるということができる。

一般に、日本の養生論の特色として、肉体的な養生のほかに、精神的な養生に主点を置くことが見られるのであるが、益軒先生の場合は精神の養生といっても、決して観念的なものでなく、つねに人間の、しかも社会的な、または国家的な人間の活動に即して、肉体的なものの上に立つ精神の養生であることは、養生訓を一読すれば、あきらかであろう。この点にも益軒先生の養生訓のすぐれた特色があり、また、大疑録の思想と一致するものが見出され、現代においても、なお不朽の価値をもつわけがあるのである。

益軒先生の生涯は、ヨオロッパの十七世紀のはじめから十八世紀のごく初期に相当している。このころのヨオロッパ医学の状態は二三のすぐれた医者はあったが、まだ山師医者の時代で、養生訓ほどの、事実に即した科学的な養生書は、まれであった。この時代の代表的な傑出した医者として、益軒先生とほとんど同じ年代のトマス シデナムがある。彼はヒポクラテス的医学への復帰をくわだてた医者として、わが古医方家の趣がある。彼はその当時の科学的知識全般に通じていたのであるが、医学においては診断および治療における態度と方法とを、理論的な学説からひきはなして考えた。

この点に彼の医学が、そのころの機械論的な、しかも観念化された物理学的医学、または化学的医学よりも、一層即事的実際的であることが認められ、いろいろの点で益軒先生の態度との相似性が認められる。しかし、このころになると、ヨオロッパでは解剖学、生理学など基礎医学的な研究の成果がつぎつぎにあらわれはじめており、また物理、化学の進歩は近代的な性格を示しはじめているのであって、わが國では逆にこのころから次第に基礎学的研究の困難と、その理論展開の貧困が度を加えてきはじめていたのにくらべて、全く反対の現象を呈している。ここに有能な日本の科学者が、徳川時代の末期まで、次第に活動を制限されて行く過程の一断面がある。養生訓を読む場合にも、この点を充分留意しなければならないのではないかと思う。

正徳三年はじめて出版された養生訓は、八巻四冊からなっている。初刷以来発行された部数は非常な数にのぼったとみえて、正徳三年版でも刷りのわるいものが多く、刷りがはっきりした本をみつけることはなかなか困難なくらいである。現在では正徳三年版が養生訓の底本となっているわけであるが、すでにそのなかに、かなりあいまいな刷字や、傍訓などがあり、文化四年の補刻版にしても同様で、明治以後刊行されたもののうち、信頼できる西田氏の益軒十訓、益軒全集、国民文庫刊行会の貝原益軒集、有朋堂文庫、いてふ本などの養生訓をみても、みな同じような点についての誤記、原本のよみ誤りがそのまま見すごされている。

このようなわけで、養生訓の校訂は必要な仕事だったわけであるが、私がそれを試みることになろうとは、全く予期しないことだった。実さい、校訂などのことはこの方面の専門の方もほかにある筈であって、専門ちがいの者がやるべきものでもないと考えたのだったが、桜井匡氏のすすめもあり、これまでのものにくらべて、一箇所でも新しく校訂することができたならば、とも考えてここに校訂をこころみることとした。

校訂にあたっては、正徳版を底本とし、文化補刻版、そのほか前記数種の刊行本を参照した。なお、本文中に校訂箇所をしめそうかとも考えたが、養生訓がほかの古典とはちがった性質のものであり、また、そのために読みにくくなることも考えて中止したが、これまでの刊行本にくらべるとかなりの箇所に校訂を加えている。なおまた、益軒先生の著書のうち、本草項目目録和名、大和本草、本草和名抄、花譜、菜譜、万宝鄙事記、日本釈名、和字解などを参照して、明らかに不当と考えられる物名の傍訓を改めた。また改めなかったものの二,三については、特に本文の注で意見を加えた。

正徳版においても、仮名遣いなど益軒先生の和字解とちがう点もあるので、原則として和字解に従って改めた。またよみやすいために、変体仮名は平仮名に改め、原本にはない濁点および句読点をつけ加えた。句読点は大体において、益軒全集と国民文庫刊行会のものとによった。しかしそのほかの部分はほとんど底本どおりとし、他書のような改変などはしなかった。これの仕事については妻芳子および義妹歌子の助力におうところが多大であった。

なお、これまでの養生訓では、医学的立場からの注解がほとんどなかったことを考えて、校訂とともに、各巻末に、主な医学的事項に限っての注解を加えた。注解はなるべく現代的な考えによらず、種々な解釈をもつものは、できるだけ養生訓が書かれたころの医学の解釈を中心として行ったつもりである。また薬用の本草については、多少わずらわしい感じはしたが、主要な組成分と、およその効力を記した。これが少しでも内容のより良い了解のたすけとなれば幸いである。

しかしながら、日本における傑出した学者として特異的な存在である博学多才の益軒先生の著書に対して、浅学非才の私が加えた注解が、かえって養生訓の真価を傷つけることになりはしなかったかを、切におそれるものである。

後生貝原守一書 昭和十八年七月三日